新海誠は売れ線を狙い、作家性を捨てた!と古参ファンはそういう批判の仕方をするし、実際そのような『君の名は。』評は公開直後から多く見受けられた。今でもだいたいそのような評価であろう。
僕もそう思うし、そこに異論はない。
だから、今回考えたいのはそういうことではなく、なぜ『君の名は。』があれほど爆発的に売れたのかということだ。
もちろん東宝のプロモーションやRADWIMPSのタイアップの影響も大いにあるだろうが、もっと根本的な何かがあるんじゃないかと思う。
そこに『君の名は。』を今更語ることの意味が、あえて今語ることの価値があると思うのだ。
具体的には、本作が爆発的人気を獲得した理由のひとつとして、現代の若者がニヒリズム(しかし浅薄な)を共有しているということが絡んでくるのではないかと論を立てた。
ニヒリズムってなんぞやという方のために一応ウィキペディアをば。
ニヒリズムとは…
ニヒリズムあるいは虚無主義(きょむしゅぎ、英: Nihilism、独: Nihilismus)とは、この世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場である。名称はラテン語の nihil (無) に由来する。 -wikipediaより一部抜粋
要は、
「世の中に本当に価値のあることなんかなーんもねぇんだ〜。生きてるのなんて無意味だぁ〜無価値だぁ〜。虚無だぁ〜。」
みたいな感じである。僕である。
僕に限らず、この日本においては「それがどうしたの?」「みんなそんなもんだろ。」という感想を持つ人は少なくないであろう。
そう我々はニヒリズムに陥っているのである。
今回は作品論というよりは、そうした『君の名は。』が広く受け入れられる土壌を形成したものは何なのかを明らかにしていきたいと思う。
まずは先だって結論からを述べておく。
『君の名は。』は、
結局夢から覚めなかった物語
である。
『君の名は。』が大ヒットした2017年〜2018年現在。
20年以上のデフレーションによる不況のせいもあり、国民は疲弊してるし、まだ社会に出ていない身分の子達も何やら未来は明るくないであろうという雰囲気は伝わっていると思う。
働けど働けど生活は厳しいし、何やらこの日本という国は財政難の借金大国であり、これからさらに税金は上がっていくだろうし、上司はウゼェし、給料は上がらねぇし、彼女はできねぇ。
こんな生活に意味や価値など見出せない。だけど生きてくためには、この終わることのない日常を捨てることもできない。
心理学者を自認するニーチェによれば、こういったニヒリズムに対して私たちが取りうる態度は、大きく分けて以下のような2つがあるらしい。
何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム、消極的・受動的ニヒリズム)。
すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、積極的・能動的ニヒリズム)。-wikipeadiaより一部抜粋
ニーチェは2つめの積極的ニヒリズムを肯定している。しかし実際どれほどの人間がそのような態度を取れるのか。
大抵の人間にはそんな強さはない。僕だってそうだ。
だからこそ現代の若者は簡単な安易な価値、ロマンティシズムを得られるものを求めるのではないだろうか。
無意味だと思われる毎日の繰り返しに何か意味付けをしたい。
せめて自分は何か運命に導かれているんじゃないかと思いたい。
というような若者の潜在的ニーズに『君の名は。』がガッチリとハマったわけだ。
今までも意識的にしろ無意識的にしろそういった社会の空気を新海監督は受け取っていたはずだ。しかし今までは単なる理想主義の形では終わらせなかった。
『秒速』ではアカリはタカキの元から離れていくし、
『言の葉の庭』でもゆきちゃん先生は遠い田舎の学校に転勤になってしまう。
理想的な日常などない。そこには現実があるだけだ。
しかし、その現実だってこんなに綺麗じゃないか。新海誠は僕たちにずっとそう語りかけてくれていたように思う。
新海作品の背景が、実際の景色や風景をあれだけ美しく描いているというところを見ても、現実を肯定しているように思える。
それが『君の名は。』においては、ラストの瀧と三葉の再会のシーンからも分かるように、大きく理想主義に転倒した。
瀧も三葉も主体的に行動しているわけではなく、なんとなく偶然巡り合ってしまう。
つまり、強烈な理想が当人達の努力無しに現実化してしまうのだ。
こうなってしまえばもうこれは現実ではない。
リアリズム(現実主義)を突き詰めるとニヒリズム(虚無主義)になってしまうし、アイデアリズム(理想主義)を突き詰めるとアンリアリズム(非現実主義)になってしまう。さらにそのアンリアリズムが打ち砕かれるとさらに強烈なニヒリズムが襲いかかる。
リアリズム(現実主義)とアイデアリズム(理想主義)の絶妙なバランスこそが、新海作品の良さだったんじゃないかと思う。そして、むしろこれが本当の我々の生活なのだ。
人は現実ばっか見てると虚無という穴に落ちてしまうし、理想ばっか見てると目が悪くなってしまい、足元をすくわれて宙に浮いてしまう。
現実主義に行き過ぎても、理想主義に行き過ぎても、結局はニヒリズムに陥ってしまうのだ。
今までの新海作品は「ロマンを求めろ、しかし簡単には虚無には打ち勝てないよ」というメッセージを放っていた。現実的になりすぎず、かと言ってしっかりと現実を見ていた。
やはり『君の名は。』は、
夢から覚めなかった物語あるいは、夢から覚めたくない、現実を見たくないという僕らの潜在的願望が結晶した物語と言えるだろう。
ニーチェが言うように消極的ニヒリズムに陥りがちなのがわれわれ近・現代人であり、しかしそれに浸りきることができないのも、また人という生き物なのだ。
しかし疲れきった日本人に、主体的に動く元気は残っていない。だから、なんとなく運命というレールに乗っていると信じたい。夢から覚めたくない。
この究極的に消極的なニヒリズム、これが現代日本を取り巻く雰囲気、君の名はがウケる土壌なのではないかな。
タカキが最後ふっと笑ったのはどうしてだろうか。その瞬間、未送信メールの中で追い続けたあかりという理想(夢)から、あかりのいない現実(うつつ)にやっと回帰できたからではないか。タカオもゆきちゃん先生との恋愛という非日常をのちのち「歩く練習をしていたのだ」と回顧する。そして、もっと遠くまで歩けるようになったら会いに行こうと、日常という現実で頑張っていくことを静かに決意している。タカキやタカオは理想という夢から覚めて、しっかりと現実での一歩を踏み出している。これが君の名はにはなく、僕たちには必要なことなのだ。『君の名は。』は夢を題材にしながら、瀧くんと三葉はその夢の延長線上を生きていく。夢から覚めることはなかった。一度夢へと没入して、そしてその夢から覚めたとき、現実を再認識する、この『君の名は。』以前の新海作品における現実と理想のバランス感覚こそ大切なのだ。