Wild Journey

良き価値を取り戻すための荒旅

二周目の彼女たち、一週目の僕ら 『少女終末旅行』論

※本稿は、同人誌版『Wild Journey』に掲載した文章に、若干の修正を加えたものです。

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意志がなければ、表象もなく、世界もない。

by ショウペンハウアー『意志と表象としての世界』

はじめに

少女終末旅行』を二周目の物語だと表現する人がいた。言い得て妙だと思った。本作は“大きな物語”がもう機能し得ない世界を舞台にしている。どういうことか。物語には主題がある。また、物語(story)とは歴史(history)の断片である

そして、本作の主人公である二人の少女、チトとユーリの生きる世界は“歴史の末端”を余儀なくされている。つまり、彼女たちの物語はどんな軌跡を辿っても歴史たり得ないものである。歴史を形作っていく物語(メインストーリー=一周目)が全て終了し、歴史の生産がもう行われない世界、そこで生きる彼女たちの物語(二周目)が本作である。それ故にこの物語は強力な主題(≒大きな物語)を持つことが出来ない。

本作は核戦争後を匂わせる世界観に、きらら系を思わせるキャラクターが登場する。少女二人が終末世界で旅をしている。その終末世界ではすべての生物(植物を含む)は死に絶え、機械と廃墟だけが残っている。都市の名残、世界の残滓、そこに少女二人。

これは絶望の物語である。世界を復興する人々はもういない。都市を再構築する機械ももう壊れかけだ。加えて、少女が二人では人類の火もそこで途絶えてしまう。国家という、人類という、文化という、文明という、大きな物語はもう機能し得ないということが分かるだろう。

先出しになるが、原作4巻で過去にカナザワから貰ったカメラを、潜水艦のモニターに接続し、カメラの前の持ち主や、その前の持ち主、更に前の持ち主らが撮影(録画)して、記録し続けてきた写真や動画の存在に気づく場面がある。その記録たちは過去の様々な人々の物語である。その数多くの物語を開き見るにつれ、チトとユーリは自分たちへと続く歴史の存在(大きな物語)を知っていく。ユーリは「こうして人々が暮らしてたんだなってことがわかると、少しだけ寂しくない気がする」とつぶやき、チトは「そうだね」と応える。その時、彼女たちは初めて本当の意味で歴史の末端に加われたのだろう。

くり返しになるが、彼女たちは文明、価値観、言葉すらもあやふやな“終わったあとの世界”で生きている。終わったあとである。世界を良くしよう/変えよう/滅ぼそう/守ろう/1から作り直そう、というあらゆる大きな物語の可能性が廃絶されている。きっと本来ならば、潜水艦のモニターに映し出された動画のなかの1つで登場した三人の少女たち(チトやユーリと同年代)こそがメインストーリーを担うキャラクターだったのだろう。そこではメインテーゼを背負う物語が紡がれたことだろうと思う。そうした彼女たちの物語がすべて過去のものとなり、彼女たちの物語の残滓として『少女終末旅行』という物語があるのだ。

もう出来ることはほとんど残されていない、そこで示されるテーゼはもう大きな物語たり得ない、それが本作の前提として理解されるところである。

ただ、本作が取るに足らない物語を供給するものだと述べる意図はない。むしろメインストーリーが終了した後を舞台としているからこそ、より人間的であり、より根源的なテーゼを提示しているといえる。いわば究極の小さな物語がそこにある。そして、それは逆説的に大きな物語をより良いものに変えていく

大きな物語から逃れらることのできない人間という存在が、終末においてどう「生きる」ことの規準を得るのか。換言すれば「生きる」ことの本質とは何なのか。そういった壮大な大風呂敷を広げつつ彼女たちの旅の軌跡を見ていきたい。

(彼女たちの世界に大きな物語はもう機能しない。しかし、私たちのこの世界ではいまだ大きな物語が機能するはずだ。なぜなら、この世界はまだ1周目なのだから。)

 

 

 

「いやホント、ドコにいるんだろうね、私たち」

はじめに その二

 まずは、未見の方のためにあらすじを載せておこう。

繁栄と栄華を極めた人間たちの文明が崩壊してから長い年月が過ぎた。生き物のほとんどが死に絶え、全てが終わってしまった世界。残されたのは廃墟となった巨大都市と朽ち果てた機械だけ。いつ世界は終わってしまったのか、なぜ世界は終わってしまったのか、そんなことを疑問にさえ思わなくなった終わりの世界で、ふたりぼっちになってしまった少女、チトとユーリ。ふたりは今日も延々と続く廃墟の中を、愛車ケッテンクラートに乗って、あてもなく彷徨う。全てが終わりを迎えた世界を舞台に、ふたりの少女が旅をする終末ファンタジーが今、幕を開ける。(TVアニメ「少女終末旅行」公式サイト)

本作は終末ものだが、悲壮感はない。冒頭にも述べたように二人の少女が、ただただ終末の世界を旅する日常系といった感じである。しかし、本作を日常系の亜種と捉えても良いものだろうか。本稿はジャンル批評を試みるものではないが、論を進めるために少しだけ考えてみたい。

確かに本作は日常系の定義に当てはまりそうではある。きらら系、『ひだまりスケッチ』の蒼樹うめや『苺ましまろ』のばらスィーを彷彿とさせるキャラクターデザインに加えて、本作の舞台は二人の関係性を脅かす諸条件(物語性、異性、社会性など)が排除され、最適化された世界観と言える。終末ものは本来ならばロマンをかき立てつつも明るいものではない。しかし、日常系の文脈で捉えると「みんな」(本作では二人)の関係性に否応なく訪れる終わりの気配をかき消してくれるものでもある。

日常系でしばしば用いられる「みんな」の関係性を維持しようとして働く想像力は、「みんな」という枠組みからの離脱を難しくし、「ひとり」の自立の機会を奪うことに繋がったりする。例えば日常系の代表作『けいおん!』は日常系において卒業を描くという果敢な挑戦をしつつも、学力が異なる主要キャラクター4人に同じ大学への進学を選択させるといった結末となった。やはり日常系の「みんな」という枠組みは同調圧を否応なしに抱え、良くも悪くもひとりひとりの世界をそこに固定するものである。

では、本作はどうだろうか。チトとユーリの関係性は、日常系の文脈に絡めとられるものだろうか。結論から言えば彼女たち二人の関係性は実に強固ながらも、それぞれの(ひとり、ひとりの)世界を拡張していく。世界の捉え方、言い換えれば、「生きる」ことを自分たちで定義づける強さがそこに見て取れる。

 

 

 

「この旅路が私たちの家ってわけだね」

旅のすゝめ

では、彼女たちの“自分たちで「生きる」ことを定義づけられる強さ”がどこから来ているのか。その要因を探っていきたい。ここで取り上げるのは『少女終末旅行』の「旅行」の部分である。

物語後半に、かつてこの世界に存在した近未来文明を支えた人工知能(AI)が、彼女たちに語りかける場面がある。「社会の利害とは無関係な場所にいるという点で旅人と神は似ています」これはとても重要な指摘のように思える。

キノの旅』という作品をご存知だろうか。旅人の少女・キノが、相棒の喋るモトラドに乗って、様々な国を旅してまわるという1話完結型のファンタジーである。訪れる国々は城塞都市となっており、国と国の間はどこの国にも属さない。そして、国々はそれぞれ独特な制度や技術、価値観を持ち、一見様変わりな文化を形成している。そうした国々の民らは自分たちの文化を妄信している。キノはそうした人々と、客観的視座を持って中立的に接していく。このように、キノが過度に文化化された人々と一線を画する客観的視座を持っているのは何故だろうか。それは彼らの違いに求められる。それぞれの国の人々とキノとの違いとは「住人」か「旅人」、あるいは「定住」か「放浪」かという点だろう。キノはひとつの国に3日間の滞在と決めて旅をしている。それが「丁度いい」のだという。人は「定住」すると良くも悪くも文化化される。それは先人の叡智の継承とともに、世界(観)を固定化することにも繋がるのだ。そして、キノが世界観の固定されてしまった国々や人々の中で客観性を維持できるのは「旅人」だからだろう。これが『少女終末旅行』においても人工知能から指摘された旅人の特性だろう。

つまり、キノに備わっている客観性は、同様にチトとユーリにも備わっている。「社会の利害」とはすなわちその社会の世界観(価値観)である。彼女たちは放浪生活をしているので、価値観が固定されることはない。加えて、彼女たちが「文化」「文明」「言葉」をほとんど受け継がない存在だということも客観的視座の獲得に大きく貢献しているだろう。彼女たちにとっては「見て感じたこと」が「世界」であり、「」の「表象」が「世界」であるということがそもそもの前提としてあるのだ。※もっとも(初期の)チトは、文化・文明・言葉によって世界を見るという特徴も見て取れる。

旅(放浪、遊動)は、定住ではない生活形態は、彼女たちを固定化された世界観から無縁にし、本来的生=「生きる」ことの本質を探究するための旅路への下地を整えた。しかし、社会と無関係の場所にいるということは、社会という中間項がごっそりと抜け落ちているということである(つまりはセカイ系の構造と一致する)。

小さな問題(生き方への問)を考えるとき、大きな問題(国家や社会への問)を考えないわけにはいかない。これらは別々の問題ではなく、互いを往還する問題であるからだ。それは国家や社会などが過去の遺物となり果てた本作においても変わらない。なぜなら、彼女たちはその遺物で生きているからである。大きな物語の延長線上、なれの果て、その末端に生きているからである。彼女たちがその遺物をその名通りのただ遺された物として扱っていたら、彼女たちはこの世界との距離感をうまく取ることが出来なかったのではないだろうか。絶望となかよくなることはできなかったのではないだろうか。地に足が着かなかったのではないだろうか。彼女たちは旅をしていくうちに、その世界との距離感とやらをだんだんと身に付けていくのである。

ここでは旅人の視座(価値観の固定からの脱却)について考えた。しかし、それはまだ直に世界の拡張をもたらすものではないことも確認した。自分の世界を広げようとするならば、よりよく生きようとするならば、多くの物語に触れることが必要だ。そして、彼女たちは旅を通して、多くの物語に出会うことになる。よって、次に彼女たちの旅がどんなものだったのかということを明らかにしていきたい。そして、ここまでは「旅人の特性」として、ふたりの共通して持っているものを考えてきた。しかし、これからはふたりの違いについて考えていこうと思う。

 

 

 

「寂しくない気がするね」

物語の収集

彼女たちの旅はどんなものだっただろう。それは二つの段階に分けて捉えることが出来る。1~5巻の「モノに触れ、人に出会い、色々なことを経験して感じ取る」段階と、5~6巻頃からの「モノを捨て、死へと対峙する」段階である。ここではその第1段階について考える。

彼女たちは旅人である。それも帰るべき故郷を持たない。旅こそが故郷であり、放浪こそが生活形態である。だからこそ、彼女たちは「文化」に拘束されることなく、自由な感性を得ることが出来たのだ。

もっともチトは少なからず「文化」なるものに拘束されている。そして、それは幼いころの読書やおじさんとの問答に根差している。ユーリはというと、全くないということはないだろうが、元々彼女たちが住んでいたであろう世界に地域社会といったものはなさそうであり、読書や社会といったものにあまり関心を持ってこなかったユーリの振る舞いや言動はかなり「文化」から自由なものである。そして、ユーリはチトに対して旅の道中に様々な疑問を投げかける。それは少なからず「文化」なるものに思考を拘束された存在であるチトや、我々読者に深く突き刺さる。「見て感じたもの」を世界と見做すユーリと違って、私たちは共同体で培った常識や、学習によって身に付けた知識を前に思考を一旦止めているのである。

つまり、ユーリは見るものすべてに疑問を呈し、チトはそれに答えるのだが、その答えは多分に(幼少時に身に付けた不充分な)常識や知識に依拠している。だが、その答えの担保となる社会性をユーリは持っていないために、その答えに対してさらに疑問を呈することになる。小さな子供の「何で?」に時折ハッとさせられるのと同じように、つまりそれは物事をパッケージ化して共通理解を確かとするための社会性が、つまるところ煩雑であり労力を要する「本当の理解」というものを省略するためのツールであるということに他ならない。これをひと言で表現すると「思考停止の装置」である。知識や常識、言葉というものはそれだけで理解した気にさせてくれるものである。しかし、本当はそこから一歩踏み込まなければ「本当の理解」など出来ない。ただ、いちいちそれをしていたら社会生活に支障をきたすので省略するのである。

以上をまとめると、常識や知識、言葉というものは「物事の理解」を手軽にパッケージ化したものである。だから、それだけでは「物事の理解」を充分にしたということにならない。しかし、社会を営むうえでは、不特定多数の人々が「物事の理解」を共有する必要があり、手軽なパッケージが要請されるのである。そして、社会で大人になっていくにつれて、それが全てだと、それで事足りるのだと思うものである。

しかし、ユーリは違う。ユーリは「見て感じたこと」が「世界」であり、「」の「表象」が「世界」である。まっすぐに世界を見ていて、直接的に世界と繋がっているのである。それに対して、チトは早いうちから、読書や問答から常識や知識を得ようと試みている。だから、社会で大人になるということの触りを経験しているのである。ユーリはそういったものを経験する前に、世界が滅んでしまった。これがふたりの違いである。

つまり、「見て感じたこと」が「世界」であるユーリとは違って、チトは常識や知識(文化)といったフィルターを通して世界を見ているのだ。人間である以上は少なからずそうなのだが、しかし、私たちは例えば「文化」という言葉もその意味も知っている。知っているからこそ識らない、識ろうとしないということがある。「文化」とは「文化」である。それ以上でもそれ以下でもない。しかし、そこをユーリなどが「それって何?どういうこと?」と想定外の疑問を投げかけてきて、答えに窮するということになるのだ。つまり、私たちは「文化」という「言葉」に突き当たり、その内にあるであろう実在(真理)を探そうとする思考が阻害されているのである。

探し当てられるべきは実在(真理)なのだが、実在は言葉を住み処とし、そして自分という存在はその住み処の番人をしている、ということにすぎないのだ。言葉が歴史という名の草原を移動しつつ実在を運んでいると思われるのだが、自分という存在はその牧者にすぎない。その番人なり牧者なりの生を通じて徐々にわからされてくるのは、実在は、そこにあると指示されているにもかかわらず、人間に認識されるのを拒絶しているということである。それを「無」とよべば、人間は実在を求めて、自分が無に永遠に回帰するほかないと知る。つまりニーチェの「永劫回帰」である。それが死という無にかかわるものとしての人間にとっての実在の姿なのだ。

これは西部邁の『虚無の構造』の一文である。「実在(真理)」を過去から現在、そして、未来へと運んでいく器が「言葉」であり、その軌跡を私たちは「歴史」と呼ぶのである。その「歴史」から逃れることが出来ず、「言葉」から逃れることが出来ず、しかし、そこに在ると思われる「実在(真理)」に私たちの手は届かない。その事実から逃れようと「自分探し」などをする者は、そうした拘束具を取り外そうとして「自分こそが実在だ」と叫ぶのである。すると、どうだろう。とても自由な世界がそこに在る。しかし、やがて悟っていくはずである。自分の中に「実在(真理)」などないことに。拘束具を外した気になって浮足立ったその足はそのまま宙に浮き続けるだろう。地に足つかず、ただ「自由」である者に世界は居場所を用意してはくれない。「自分」は居場所にならないのである。居場所とはあらゆる他者性に宿るのだ。

ユーリは「歴史」や「言葉」といった拘束具から比較的に自由であり、その感性は「実在」にとても近い場所にいる。しかし、時に彼女は危なっかしい。近未来兵器に搭乗した際にミサイルをぶっ放して爆笑するユーリに、違和感を覚えた読者は多いだろう。つまり、ここまで紙幅を費やして何が言いたかったのかというと、ユーリはすごい。しかし、本作はチトや読者が、ユーリのすごさにハッとさせられる物語ではないということである。本作は、ユーリにあってチトに足りないものチトにあってユーリに足りないもの、それぞれを補い合うことで彼女たちが「実在(真理)」に肉薄していく物語ではないかと思うのだ。そして、「生きること」という小さな物語の大きなテーマを追求する物語だと思うのだ。要するに「実在探し」の物語なのである。

では、ユーリの持つ「(言葉や歴史から)自由な感性」、二人の持つ「旅人の視点」とここまで見てきたわけだが、チトの持つものについてはどのように考えれば良いだろうか。それはひと言で表現すると「(言葉や歴史によって束ねられる)物語への感性」である。

では、こうしたチトとユーリの持つ想像力は、具体的にどう違うのか。いよいよそれを明らかにしていきたい。「モノに触れ、人に出会い、色々なことを経験して感じ取る」第1段階の話である。

旅をする彼女たちは様々な“”を拾ったり、触れたり、見たりする。または、カナザワやイシイといった“”や、自我を持った自律機械や人工知能(AI)と出会い彼らとささやかな触れ合いをする。その過程で“共感”するのである。その“物”から想像される小さな物語、出会う人々の小さな物語、そうした幾つもの小さな物語を拾い集めていく旅が彼女たちの旅である。

ユーリは先にも述べた通り、都市が燃えても笑い、大切な本を燃やしてしまい、お墓の遺品をそれとわかっても持ち出している。その“物”の意味、そこに介在する人々の想いや物語を想像する力に疎く、都市や物をただ現象として捉えてしまっている節がある。何度も述べてきたとおり、ユーリにとっては「見て感じたこと」が「世界」であり、それ以上のものは何もないのだ。

しかし、それもチトとの問答や、人や物との出会いから、自ら実際的に感じ取っていくにつれて変わってくる。物とはそれを使っていた/使ってきた人々の痕跡が残っているものである。その痕跡からチトはしばしばその人々に想いを馳せることがあるが、ユーリは「記憶なんて生きる邪魔だぜ」などと言ったりして、今にしか興味がないという感じがあった。しかし、ユーリが自らの手で都市を焼き払った直後に、潜水艦のモニターに投影された過去の人々の写真や動画を見る場面、つまり、本稿冒頭で挙げた場面に繋がっていくのだ。そこでユーリは「なんでちーちゃんが昔のことを知りたがるのか、少しわかったかも」と切り出し、「こうして人々が暮らしてたんだなってことがわかると、少しだけ寂しくない気がする」と告げたことは既に紹介したとおりである。カメラを介して、そのかつての持ち主だった者たちの無数の小さな物語(生きた痕)と、それら小さな物語が寄り集まってはじめて彼女たちの前に浮かび上がってきた大きな物語(歴史)に、彼女たちがやっと合流できた瞬間だったと言える。カメラに記憶された小さな物語(=私的な物語)がいくつも折り重なっていって、大きな物語(=公的な物語)が、つまりこの世界はなぜ滅んだのかという歴史を彼女たちに知らせたのである。それはチトとユーリの小さな物語が、歴史の末端に加わった瞬間でもある。

記憶(=歴史≒社会≒知識≒常識≒言葉)によって物事を捉え考えていたチトが、ユーリの影響を受けて「見て感じたこと」を大事にするようになっていった。そして、記憶(=歴史≒社会≒知識≒常識≒言葉)なんて生きる邪魔だと考えていたユーリが、チトの影響を受けて「歴史」を大事にするようになった。ふたりに欠けていたものをそれぞれが補い合って、ふたりはいよいよ「実在(真理)」へと近づいていくのである。

ここまでをまとめると、チトとユーリの旅は終末世界に辛うじて残る小さな物語を収集しつつ、自らの感性で世界を捉え直し、潜水艦における「接続」をきっかけとして、その思考が大きな物語(歴史)へと到達する。さぁこれにて材料は揃った!自己から世界へ、世界から自己へ、この往還が導かれた後は、生を全うするのみである。ここをターニングポイントにして、物語の収集フェーズ(第1段階)から世界の定義フェーズ(第2段階)へと移行していく。個人の生き方の問題(小さな物語)とその世界の問題(大きな物語)を己のものとした二人は、いよいよ最後の旅に出るのである。その最深部、あらゆる問いの根源的な答えを求めて。

 

 

 

「死ぬのが怖くて生きられるかよ!」

死への自覚/生への知覚

今一度、彼女たち自身の話に戻そう。彼女たちは旅を通して世界の輪郭をひとつひとつ確かめていく。現代に生きる私たちにはない真っ白な感性で世界と接し、自分なりの色を付けていく。そのような旅を可能にしたものとは何だろうか。

ここまでに彼女たちの強さは「旅」に起因すると論じてきた。「旅」は客観性をもたらし、世界の見方を自由にする。人々は定住すると少なからず文化化され、文化の中に含まれる常識や習慣によって知らず知らずに思考を固定されている。彼女たちは旅という生活形態の中で世界を自由に観測する感性を手に入れたのだ。

しかし、その自由さとは諸刃の剣であり、浮足立った足が浮いたままという事態を招きかねない。それがこれまで述べたきたようなユーリの行動によく表れている。自由とはそれだけでは良くも悪くも転びうる不安定なものなのだ。

対して、定住者(=住人)は大小あれど文化的存在である。その文化もまた諸刃の剣で、そのデメリットとしては再三述べている思考の固定がある。しかし、そのメリットの方も存外大きく、文化とは先人の叡智の積み重ねであり、たかだか十数年しか生きていない個人の思考をはるかに凌駕し、生きるうえでのあらゆる規準をもたらしてくれるものである。

この自由と文化の両立こそ、最強の剣となる。その自由と文化のバランスをどうとるかが重要なのだ。そのどちらかに傾倒すると、人々はその片割れへの想像力や寛容さを失うのだ。ここまで言えばお分かりだろうが、本作においてその片割れとはチトとユーリのことである。「片っぽずつ翼寄せあって飛ぼう」とは他作品(『ヤマノススメ』)の言葉だが、ふたりがそれぞれの良さを取り入れていく。それが本作の物語であり、その舞台装置が「旅」だったのである。

また、彼女たちはただ「旅」をするだけでなく、その道中に様々なものに出会い、その物語に触れていった。出会うものに共感し、その物語を内在化していった。物語に触れ、物語を収集し、そのエッセンスを自分の中に取り込んでいく。そして、その集約である大きな物語に触れて、小さな物語たち(つまりは自分たちを含む人々の営み)の連関と連続性を知っていく。そうして彼女たちは成長し、彼女たちの物語は終局へ向かっていくのだ。

さて、以上がここまでの本稿のまとめであるが、ここからはそのような「旅」を彼女たちに可能にさせたものは何かをより深く考えることにする。

本作には寺院が登場する。そして、仏教的な価値観が所々に見え隠れしている。そのひとつとして物語終盤のユーリの「生きるのはつまり螺旋のことだったんだよ!」という言葉にもよく表れているように螺旋(≒)のモチーフである。

仏教的な価値観を前提に読み解けば、本作には螺旋がしばしば登場する。最上階に上がる階段がまさに螺旋階段であるが、それを上へ上へと昇っていく。それはさながら死へ向かう旅である。物語を収集する旅(第1段階)は5巻の終盤にはほとんど終わる。では、いよいよその総括としての美術館~煙草工場にかけての旅路を追ってみようと思う。

チトとユーリ(の物語)は潜水艦において、たくさんの小さな物語の集合(=歴史)と接続したことによって、物語の収集フェーズの臨界点を迎える。彼女たちの内面世界はついに立つべき大地、自由と歴史のバランス(規準)を手に入れたのだ。それが「寂しくない気がする」という感覚にも表れている。

そして、美術館を見つけた二人は、古い時代の絵から新しい時代の絵へと、歴史をたどるようにして歩いていく。この美術館は外観から察するに円形の建物であり、1周ぐるっと回る構造になっている。ふたりは数々の絵を見て太古の人々の感情に共感を覚え、最後にはユーリが描いた絵を「アルタミラ洞窟壁画」の横に残していく。この「アルタミラ洞窟壁画」は人類最古(級)の絵である。その横にユーリの人類最後の絵が並べられたことは、本人たちの意図せぬところでとても歴史の循環を思わせる。彼女たちは人類の歴史の循環の中、原初へと還ったのだ。より根源的な人間らしさへと回帰したのだ。

そして、次に彼女たちは煙草工場を発見する。そこで、ユーリはふかした煙草の煙を眺めながら「死んだ人のたましいが全部この世界に留まっているとしたら、私たちの周りも見えないたましいであふれているのかもしれない。そして、見えないみんなでどんちゃん騒ぎをしているんだよ!それでたまに死んだ人のたましいとしゃべれたりしたらよくない?」と言う。しばらくしてチトが「死んだ人と話すことはできないけどさ…そこにもういない人たちと繋がるための方法はあるんだと思うな。私たち自身の想像力」と返す。このやり取りはまさしく総括である。ユーリが死者との対話(歴史)を語り、チトが想像力を語っている。それぞれがそれぞれの良さを補い合ったからこその集大成の台詞である。そして、今まで拾い集めてきた物語の欠片が歴史という形で組みあがり、彼女たちに内在化されていった物語が、想像力を研ぎ澄ましたのである。

こうして物語収集フェーズから、世界の定義フェーズへと移行していく。第二段階である。これ以降は拾い集めてきた物を捨てていくことになる。火薬をほぼすべて消費し、ケッテンクラートが壊れ、いくつかの弾薬を残して銃を捨て、燃料代わりに本や日記を燃やしていく。本格的に死へと対峙することとなる。

チトとユーリは「生命って終わりがあるってことなんじゃないかな」という感覚を持ち、死を「怖い」とは言いつつも、常に「死」「死後」について問答し、そのことによって現在の生を再確認していった。

目的的な生ではなく、そこにある「死」から目を背けることなく、向き合ってきたと言える。現代人の生は増大している。そうではなく、絶対的な他者である死にこそ本来的な生が宿るのだ。どうしようもない死、それが絶望であり、虚無である。それに向き合おうとした姿勢が「絶望となかよく」という思想であり、それは積極的ニヒリズムとでも呼ぶことが出来るだろう。

この死との問答から、現在の生ひいては現在を形作る過去にまで回る思考のサイクルを「永劫回帰」と呼んだり「無常」と呼んだりするのかもしれない。永劫回帰とはこのたった1回の生を全く同じように延々と繰り返すという、仏教の輪廻転生とはまた違った考え方だ。まったく同じ生をさながらビデオテープのようにただただ繰り返す。しかし、その1回性の連続は現在の生や過去をより良いものとして浮かび上がらせてくれるものである。 

さて、今まで述べてきた旅人の視点と世界との距離、物語の収集と内在化、死との距離感、これらが全て彼女たちのものとなり、いよいよ彼女たちは自ら世界を定義していく。その答えが最終巻、最後のやり取りである。最上階へ向かう螺旋階段、二人は1巻冒頭のように暗闇の中にいた。1巻の冒頭では「いやホント、ドコにいるんだろうね、私たち」と迷っていた。もしかしたら世界での自分たちの居場所を測りかねていたのかもしれない。とても比喩的な言い回しである。

そして、最終巻、暗闇の中、二人は手を繋ぎながら階段を一段一段登っていく。その中でチトは「私の手…ユーの手…肌に触れる冷たい空気…その外側にある建物…都市…その上に広がる空…こうして触れ合っている世界のすべてが私たちそのものみたいだ…」と語り、何もない最上階に着いた後にその時のことを思い返しながら「自分と世界がひとつになった気がして…それで思った…見て触って感じられることが世界のすべてなんだって」と語る。ユーリは「私もずっとそれを言いたかった気がする」と返す。

チトとユーリが出した答えは、「見て感じたこと」が世界であり、それは「私」そのもの、つまり「私」の「表象」であるということだ。それはさらに「私」の「意志」であり、「私」が世界を拡張する。ここでいう「見て感じたこと」には当然、物語の収集も含まれている。すべてを見て、すべてを引き受ける。それが全てを解放し、すべてを束ねる。そして、それは究極の諦めであり、究極の希望でもあるのだ。

 

 

 

「いつかすべてが終わると知っていても何かをせずにはいられない」

まとめ 

幸運なことに彼女たちの生きる世界は、実は3230年頃である。あぁ終末は遠そうだ。正直ホッとする気持ちがある。僕たちの世界はまだまだ終わらない。しかし、僕たちは一周目だ

本作は、二周目の彼女たちから、一周目の僕たちへと手渡されたバトンである。バトンを受け取った僕たちは、時の流れに従って、彼女たちにバトンを渡し返さなければならない。二周目の想像力を得て、私たちは一周目を生きる責任がある

では、私たちは彼女たちの二周目の想像力をどのように一周目に生かしていくべきだろうか。二つの観点から総括しつつ、まとめとしたい。その二つの観点とは「」と「」である。

まず最初に「旅」について。思考は世界に固定される。逃れることは難しい。そこで重要となるのが、再三述べてきた旅人の視点である。ただ、現代人が「定住」から抜け出して「放浪」することは難しい。しかし、何も本当に放浪の旅に出る必要はないのである。旅人の想像力を持つには「法外」に行けば良い。小さな小さな旅を重ね、法内を外から眺める力をつけること。そして、自分の手で規準を探り当てていくこと。内と外を行って帰ってくるという往還が、次第に真ん中(規準)を確定させてくれるのだ。それこそが定住社会に生きる私たちにとっての「旅」となりうる。

では、法外にいくとは何か。本作の世界ではそもそも法内などないのかもしれないが、その中でも子供でありながら「びう」(おそらくビールのことだろう)や「たばこ」をしていることは法外たり得るだろう。何も酒とタバコをしろと勧めている訳ではない。法を破ることを勧めているのだ!社会や常識の枠外に出る経験が必要なのである。それこそ「法」は「正義」のパッケージ化でもある。何が「正しい」のか。「見て感じたこと」を信じて考えてみるのである。

次に「死」について。それは1回性の中を生きる彼女たちと同様に、自分の死、世界の死をそこにあるものとして感じ取り、過去や歴史をより良き過去へ、より良き歴史へと変えていく循環を繰り返すことだ。己のなかで1回性を無限にくり返し、過去をより良きものにする。そのメッセージが本作なのである。それはチトやユーリ(二周目)から見て過去である私たち(1周目)でもあるし、私たちから見て過去のことでもある。過ぎ去った過去を現在に生かすよう生きるということだ。

本作への批評という意味では少し話がそれるかもしれないが、最後にハイデガーの『存在と時間』から一節を引用したい。少々難解であるので何となくで読み進めていただいて構わない。

現存在の覚悟が本来的であればあるほど、すなわち、死への先駆において現存在がひとごとでない際立った可能性からおのれをまぎれなく了解すればするほど、おのれの実存の可能性の選択的発見も、それだけ曖昧さと偶然性のすくないものになる。死への先駆だけが、あらゆる偶然的で〈暫定的〉な可能性を排除する。死へ向かって自由に開かれてあることだけが、現存在に端的な目標を与えて、実存をおのれの有限性へと押しやる。みずからつかみとった実存の有限性が、様々に差し出される安楽さや気楽さや逃避などの身近な可能性の果てしない群がりから現存在を引き出し、それを自己の運命の単純さへ導き入れる。ここで運命というのは、本来的覚悟性のうちにひそんでいる現存在の根源的な生起の仕方のことであり、その生起のうちで現存在は、死に自由に開かれてありながら、相続したものではあってもやはり自分で選びとったものでもある可能性のうちに置かれている自分自身におのれをゆだねるのである。

本稿で述べてきたように、チトやユーリの生と死の距離はとても近いところにあった。それは怖いとか怖くないとか、ただ単に状況的にそうであったということではない。それは死への自覚である。彼女たちは常に死に身近なところで死について考える(死へ先駆する)ことをした。死への自覚とはそれだけで現在の生への見方を変えさせてくれる。それどころか無数の過去を必然へと転換させる力があり、それを運命と呼ぶのである。「その死につきあたってくだけ散り、自分の事実的な現へ投げかえされることのできる存在者」であること、死へ先駆し、現在へと投げ返され、過去をより良いものにする。それが「よりよく生きる」ためのサイクルを回すのである。彼女たちは「死」への旅をしたからこそ、死への先駆を繰り返したからこそ「生きることは最高だった」という結論を必然的に得ることができたのではないか。それが1回性を生きる(≒永劫回帰)ということなのだろうと思う。

生を過大評価せず(増大させず)、生きるとは螺旋(死ぬこと)なりという理解が「絶望となかよく」という積極的ニヒリズムの生き方へと帰結していったと言うことも出来る。私たちもこの世界を覆い尽くす「絶望」となかよくなり、「生きるのは最高だった」と胸を張って言えるように、そして、次に繋いでいけるようにしようではないか。

 

さぁ僕たちからチトとユーリへ、その旅を始めよう。幸運なことに私たちの生きる世界は2018年現在である。まだまだ時間はありそうだ。(完)