Wild Journey

良き価値を取り戻すための荒旅

「もし、あの時、他の。」が、人間を運命から遠ざけ、選択不可能を理由に、人生、それ自体を逃避行にしてしまう。

僕は今まで、かなり自分自身を取り繕ってきた自覚がある。

取り繕いというか、単なるその場しのぎのカッコツケである。

そのカッコツケの根源は、他人からあー見られたいのだ、こー思われたいのだ、優越を示したいのだ、という浅ましい気分が九割である。僕が僕自身を見るとき、吐き気を催すであろう様相を示していることは間違いない。

 

結局、僕はありとあらゆることから逃げてきただけなのだ。

ただただ、他人からコントロールされたくない。俺の方が正しい。自分の間違いに気づけば、その時々、瞬間を誤魔化し、後出しで過去を修正する。

 

過去修正、それがカッコツケの残りの一割であろう。

 

「あの時、あーであれば、こーであれば、他の状況があれば…etc」

と、思索をめぐらすこと自体がもう逃げなのだ。

所詮、どのような状況にあっても、「あの時、あーであれば、こーであれば、他の状況があれば…etc」と、御託を丁寧に並べ出すような人間なのである。

 

僕は飽き性である。

というか、飽き性を理由に世界の広さから逃げているだけなので、物事を突き詰めることができないだけ。井の中の蛙であろうとする、この卑しい気持ちに早く終止符を打ちたい。でも、怖い。これを繰り返してきただけの人生である。井の中で、ずっと流れることのない腐敗した水の中で身を溶かしてきたのである。

そして言い訳が始まるのである、「もし、あの時、他の、、、」

 

目の前を、直前の過去を、今の自分自身を、ただただ受け容れる覚悟がないだけの弱い人間なのである。

 

ただ飽き性なので、そんな自分にも飽き始めている。

と言いながら、また言い訳が始まる。