宝塚歌劇・宙組公演『神々の土地~ロマノフたちの黄昏~』の話をしようと思う。
『神々の土地』という名の傑作の
“物語”の話をしようじゃないか。
本記事は以下のように進行する。
1.『神々の土地』考察
①対立項の整理 / 二つの宗教
②歴史と物語 / 二人のドミトリー
③ラストシーン / 二通りの解釈
2.宝塚の傑作ミュージカルとは…これからの宝塚
3.物語とは…これからの社会
では始めよう。
1.『神々の土地』考察(以下、敬称略)
1916年、ロシア革命前夜。帝都ペトログラードで囁かれる怪しげな噂。皇帝ニコライ二世と皇后アレクサンドラが、ラスプーチンという怪僧に操られて悪政を敷いている——。折からの大戦で困窮した民衆はロマノフ王朝への不満を募らせ、革命の気運はかつてないほどに高まっていた。
皇族で有能な軍人でもあるドミトリー・パブロヴィチ・ロマノフは、皇帝の身辺を護るためペトログラードへの転任を命じられる。王朝を救う道を模索する彼にフェリックス・ユスポフ公爵がラスプーチン暗殺を持ちかける。時を同じくして、皇帝から皇女オリガとの結婚を勧められるドミトリー。しかしその心を、ある女性の面影がよぎって…
凍てつく嵐のような革命のうねりの中に、失われゆく華やかな冬宮。一つの時代の終わりに命燃やした、魂たちの永遠の思い出。(宝塚歌劇公式サイトより)
宙組男役トップスター・朝夏まなとの退団公演として、上田久美子が作・演出を務めたオリジナル作品『神々の土地~ロマノフたちの黄昏~』は、2017年11月19日をもって東京宝塚劇場での千秋楽を迎え、全ての公演は終了している。だから、ここからはネタバレ全開の内容とさせていただく。
もっともネタバレなど気にしなければいい。以下少し余談である。さっさと『神々の土地』の考察を読みたいという方は①まで読み飛ばしていただきたい。
映画はネタバレになれば、もう見る愉しみがなくなってしまうという昨今の愚かしい思い込みとは別の地点に立って、読者に映画の本当の面白さを体験してもらいたい(中略)優れたフィルムとは、一度見ただけでは絶対に理解できない。いくたびも繰り返し見直し、筋立てなどがどうでもよっくなったところにまで到達して、初めて監督の意図したメッセージを受け取ることができるのである。ネタバレを云々する映画の見方は、もっとも幼稚な見方であることを、確認しておきたい。
これは四方田犬彦著『テロルと映画 スぺクタクルとしての暴力』の一節である。優れた物語というものは重層的な深みがある。たとえ「答え」をバラされたとしても「過程」や「文脈」によってその「答え」の「意味」は大きく変わってくるはずだ。
アガサ・クリスティーの『オリエント急行の殺人』という作品がある。多くの人はこの作品の“犯人”を知っているかもしれない。犯人はオリエント急行に乗っていた12人の容疑者(乗客)全員である。しかも、「全員犯人」という衝撃展開に拍車をかけるように、潔癖症で完璧主義者の主人公・名探偵ポワロは「警察に嘘の推理を伝え、犯人全員を見逃す」という決断を選択する。しかし、ここまでのネタ(答え)をバラされても、この作品の愉しみは決して損なわれることはない。『オリエント急行の殺人』という作品の“愉しみ”とは、「何故」名探偵ポワロは犯人を見逃したのか、であるからだ。この「何故」がとても大切で、そして、この「何故」に「答え」はない。「答え」がないところに物語の愉しみがあるのならば、ネタ(答え)バレに物語の愉しみを奪うことなどできないのである。『神々の土地』も間違いなく「何故」を突き詰める事ができる物語であることを保証する。
さぁ物語の話をしようじゃないか。ネタでもトリックでも、真犯人でも黒幕でもなく、物語の話をしよう。
①対立項の整理 / 二つの宗教
冒頭、主人公ドミトリーの養父・セルゲイ大公(寿つかさ)がテロリストの凶弾に斃れる。“父”の死から本作は始まる。そして“母”なる大地(地母神信仰)で物語は展開していくのだ。
養父と書いたが、セルゲイ大公はドミトリーの実の父ではない。実父は国外追放されており、実父の弟がセルゲイ大公だ。そして、ドミトリーは物語の序盤に中央へと呼び戻され、皇帝ニコライ2世(松風輝)を代理父として慕うことになる。つまり、父が三度変わっているのだ。
「何を求める戦いか分からず」戦い続けるドミトリーの、父性を喪失し、母性に回収される物語。そして、本作は2つの対立軸が登場する。それを仮にサイドAとサイドBとすると以下のように分類できる。
サイドA:母なる大地(地母神信仰)/旧勢力/貴族・民衆
サイドB:代理父(キリスト教)/現勢力/皇族
少し解説すると地母神信仰とはロシアの民間信仰であり、大地を神とするものである。「第2場 大公邸近くの雪原」にて、老人イワン(風馬翔)が雪原に向かって次のように叫ぶ。
「おーい、神様―!なんであんたは儂たちを苦しめる。息子は生きとりますか、死んどりますか。あんたに血も涙もあるなら、はよう息子を返してくれたらどうですか。」
この悲痛な叫びはまさに大地という神様への嘆願だ。本作ではこの地母神信仰(民衆/ロシアを想う太后や貴族)とキリスト教(ニコライ二世を中心とする皇族)の対立軸で物語が進行する。
ドミトリーは皇族だが、貴族や民衆と親しく交流している。サイドAとサイドBの間を取り持とうというのが彼の立場である。そして、彼とは反対にサイドAとサイドBを分断しようとする者が、世にも有名なラスプーチン(愛月ひかる)だ。
本作はロシア革命の原因ともなった怪僧ラスプーチン暗殺劇の実行者ドミトリー・パヴロヴィチの半生を題材にした物語である。
当然、歴史を題材にした物語は、歴史の引力に完全には逆らえない。織田信長は創作物の中でも本能寺の変を回避することは難しいのである。歴史物語においてIFはあまり好まれないのだ。
では、本作の主人公ドミトリー・パヴロヴィチの末路をご存知だろうか。言うなれば、彼は明智光秀と同じだ。ドミトリーはラスプーチン暗殺に成功する。そして、その後はクーデターによって首都を制圧し、皇帝の位に即位するという計画だった。しかし、家族同然に交流したニコライ2世の娘オリガ(星風まどか)の密告により、クーデターは失敗に終わり、ドミトリーは最激戦地ペルシャ戦線へと追放されることになるのだ。
しかし、幸運なことに、首都から遠く離れたペルシャ戦線にいたドミトリーは数か月後のロシア革命を避けることができた。首都にいたニコライ2世やオリガは当然殺され、ソヴィエト連邦が成立することになる。ここで注目したいのは、史実ではサイドAもサイドBも、どちらも幸せにはならないのである。
サイドA:母なる大地(地母神信仰)/旧勢力/貴族・民衆
サイドB:代理父(キリスト教)/現勢力/皇族
とは異なる、第三の勢力(ボリシェビキ)が台頭して権力を握り、皇族や貴族は粛清の対象となった。宗教は弾圧され、民衆も飢餓に苦しむことになる。本作ではソヴィエトの時代までは描かれないが、後日譚があるとすれば主要人物はみな処刑か追放されており、ロシアさえも消滅した誰一人幸せになっていない世界だ。
この結末は変えようがない。歴史上の人物であるドミトリーでは、物語の世界においても、歴史の引力に引き寄せられてしまうのである。(創作物としての)歴史を改変する想像力として、ドミトリーというキャラクターでは不充分なのだ。彼1人で歴史を改変すること=物語としての希望を示すことはとても難しい。
しかし、本作はとても巧妙に「希望」を描いている。歴史を改変しようという野望=未来へ繋ぐ想像力を試みているのだ。
そのキーパーソンとなる人物がいる。
それはもう一人のドミトリーである。
②歴史と物語 / 二人のドミトリー
ここでもう一度、対立軸を整理したい。
サイドA:母なる大地(地母神信仰)/旧勢力/貴族・民衆
サイドB:代理父(キリスト教)/現勢力/皇族
サイドBはニコライ二世を中心とする皇族の一部である。皇后アレキサンドラ(凛城きら)、皇女オリガ、皇太子アレクセイ(花菱りず)らで構成され、怪僧ラスプーチンに惑わされ、外部を拒絶してしまっている人々だ。
サイドAは皇太后マリア(寿つかさ)=ニコライ2世の母親を中心とする、現政権に不満を持つ貴族や民衆である。貴族のフェリックス(真風涼帆)や近衛騎兵将校らはラスプーチンの排斥、あるいは政権転覆を狙っている。ゾバール(桜木みなと)ら活動家の影もちらつくが、本作では彼ら(少なくてもラッダやミーチャ=後述)は第三勢力のボリシェビキというよりかは民衆と捉えて良さそうである。
両者を繋ぐ(和解させる)ことができるのは、皇族(サイドB)であり、軍人(サイドA)でもあり、ニコライ二世(サイドB)を代理父として慕い、フェリックス(サイドA)と親友でもあるドミトリーしかいない。
しかし、史実ではそれは叶わず敗北を喫する。
そこで上田久美子は運命(史実)に抗うべく、一人の刺客(オリジナルキャラクター)を送り込んだ。
その刺客とは…
本作のヒロイン、大公妃イリナ(伶美うらら)だ
と思うだろうが、違う。
皇后アレキサンドラ(サイドB)の妹であり、従軍看護師(サイドA)でもある彼女だが、彼女はむしろ本作を史実へと戻す装置であるように思う。ドミトリーは結局、彼女への想いを断ち切れずに、最後のチャンスだった皇女オリガとの結婚(サイドAとサイドBの合体=公武合体のようなもの)を棒に振り、ラスプーチンの暗殺と皇位簒奪(サイドBの撃滅)へと向かってしまうのである。
では誰か。
本作のキーパーソンはやはりミーチャ(優希しおん)ではないかと思う。
あまりピンと来ない人もいるかもしれない。「第4場 ジプシー酒場ツィンカ」にて初登場するギター弾きの少年である。そんな端役が何故キーパーソンなのか、納得できない人もいるだろうから、まずは“決定的な証拠”を示したいと思う。
ご存知だろうか。
ロシア人は名前で愛称が決まっているのだ。例えば、日本で言えばダイキは「ダイちゃん」、ケントは「ケンちゃん」といったあだ名になりがちだが、感覚としてはそれに近いかもしれない。ロシアではもう少し明確に決まっているようだ。
そこで、本作の主人公ドミトリー・パヴロヴィチの愛称を調べてみた。すると、なんとドミトリーの愛称はジーマもしくはミーチャだということが分かった。
※そう言えば『カラマーゾフの兄弟』のドミートリイ・フョードロウィチ・カラマーゾフの愛称もミーチャ(ミーチカ)である。
つまりドミトリーはミーチャであるのだ。本作のオリジナルキャラクターであるギター弾きのミーチャとはもう1人のドミトリーだ。
二人のドミトリー、いや、二人のミーチャと言った方が適切かもしれない。
キリスト教側のミーチャと地母神信仰側のミーチャ。
権力側のミーチャと民衆側のミーチャ。
そして、史実のミーチャと創作のミーチャ。
あるいは現実のミーチャと可能性のミーチャと言っても良いかもしれない。互いのミーチャはサイドAとサイドBの架け橋となろうとした、なれる存在だったと言える。史実のミーチャ(ドミトリー)だけではそれは難しいかもしれない。しかし、史実を変える力を秘める、想像力のミーチャ(ギター弾きの少年)ならそれが可能になるかもしれない。歴史の引力から解放される可能性があったと言えるだろう。
つまり本作のターニングポイントは「第4場 ジプシー酒場ツィンカ」である。以下に第4場の一部を抜粋する。ドミトリーとアレクセイのやり取りである。
アレクセイ「(ギター弾きの少年を見て)ねぇ、彼のギター上手だね。彼に褒美をあげるよ。その指輪ってダイヤ?」
オリガ「ええ」
アレクセイ「姉さんがあげてきて」
ドミトリー「アレクセイ、彼のギターが良いと思ったんなら、自分でそれを伝えてこい。褒美なんていらない。友達になってギターを教えてもらえ」
アレクセイ「僕がツァーレヴィチ(皇太子)だと言えば家来になるだろ、命令してギターを弾かせればいいさ」
ドミトリー「駄目だ。今日は秘密の遠乗りだから、君はただのアレクセイだ。ただのアレクセイのままでも君にはちゃんと値打ちがあるはずだ」
アレクセイ「(少年に近づいて)ねぇ、ギター…僕にも弾けるかな。君みたいに上手に、僕もやってみたいなって…教えてよ!」
ミーチャ「むこうに姉ちゃんのギターがあるよ、行こう!」
ドミトリーはアレクセイに皇太子ではなく、つまりサイドBとしてではなく、(AでもBでもない)ただのアレクセイとしてミーチャと接するように諭す。将来のサイドBを担うであろうツァーレ“ヴィチ”のアレクセイと、将来のサイドAを担うかもしれないギター弾きの“少年”ミーチャを繋ぐことに成功したのだ。史実のミーチャ(ドミトリー)が想像力のミーチャ(ギター弾きの少年)に希望を繋ぐことに成功したのである。
ミーチャとアレクセイの関係こそが希望だった。この物語が、上田久美子が、非情な現実に示したひとつの可能性が、ギターを通して繋がった彼らの微笑ましい関係だったのだ。しかし、アレクセイの転倒事故によって彼らの繋がりは中断され、そして続くことはなかった。ミーチャとアレクセイを引き離した時点で、または、ミーチャが死んでしまった時点(後述)で、この物語は史実のミーチャと想像力のミーチャが存在する世界から、史実のミーチャ、つまりはドミトリーしか存在しないただの史実へと戻されてしまったのである。分かりにくい書き方かもしれないが、この時点で可能性(希望)はなくなった。あとは淡々と史実と史実を補完する物語を綴るだけである。
さて、ミーチャを殺したのは誰だったか覚えているだろうか。
「第10場B ジプシー酒場ツィンカ」にて、台本には「ドミトリーはとっさに少年を撃つ。ミーチャは死に…」と書かれている。
そう、ドミトリーだ。
自分で自分(の可能性)を殺したわけだ。そして、「第11場 冬宮のラスプーチン暗殺」に繋がるのだが、この10場Bと11場を繋ぐのが『ミーチャの死〜ラスプーチン暗殺』というタイトルの劇伴である。活動家ゾバールたちの身元が割れ、ラッダ(瀬音リサ)の悲劇的な死様も印象深いシーンだが、劇伴のタイトルはその中の一人、ミーチャをピックアップする形をとっている。
ミーチャ(もう1人のドミトリー/ギター弾きの少年)の存在は、創作のオリジナルエンドをもたらす可能性もあったわけだが…彼の死によって完全に史実に収束していく。ここがラスプーチン暗殺という敗北への最後の砦だった。最後の小さな、小さな、希望だった。それをあろうことか自ら摘んでしまい、ドミトリーは半ば失意のうちにラスプーチン暗殺を決行する。ドミトリーの自分殺し、それが本作のハイライトである。
その後の顛末はすでに述べた通りだ。
そして、全てが終わり、ラストシーンへ。
③ラストシーン / 二通りの解釈
ラストシーンの解釈は2通り出来るのではないかと思う。
1つは死後の世界で、この大地の下に、やっとみんなが分かり合えたというものだ。走馬灯のように雪原を行き交う人々。在りし日の人々の姿が舞台を行き交う。彼らはそこで握手をする。サイドAとサイドBがようやく和解した瞬間である。おそらくそこは死後の世界だろう。神々の大地に戻って、つまり死してやっと彼らは分かり合えたのだ。
そして、もう一つの解釈、それは平行世界、パラレルワールドである。突飛に思えるかもしれないが最後まで聞いてほしい。つまり、あのラストシーンはこういう世界になることも出来たはずだ、こんな可能性もあったんだ…と、そういうシーンではないかと思うのだ。もし信長と明智が手を取り合っていたら、徳川幕府の鎖国ではなく大海に打って出て、違う繁栄の道があったのではないだろうか。というように、もしロマノフと民衆が手を取り合っていたら、ソヴィエト連邦下のキリスト教も地母神信仰も共に敗者となってしまった時代は回避できたのではなかろうか?もしアレクセイとミーチャが手を取り合った世界があったのなら、それはきっと素晴らしい世界になったのではなかろうか。というような「もし」のシーンだったのだと思う。さすがに歴史改変の物語は好まれない。それは一種の現実逃避となり得るからである。しかし、歴史(history)を共感の物語(story)として読み解こうとするとき、本作のようなラストシーンが描かれる。演劇という表現空間を利用して、フィナーレという特殊な空間世界において、ほんの少し「IF」を見せる。そうすることによって史実に忠実に描かれた悲劇がより際立って、より鮮烈なメッセージとして観客に突き刺さるのである。スイカに塩をかけるようなものだ(←そうなのか?)。
彼らの決断が少しずつ違っていて、彼らが少しでも歩み寄れていれば、こんなにも温かい素晴らしい世界があったかもしれない。そんな可能性をラストシーンで見せてくれたのではないか。これぞ歴史の教訓の物語である。歴史を学ぶのは、歴史の教訓を私たちの世界に活かすためである。彼らが願った温かな世界を、私たちには実現する責務がある。僕はそう考える。あるいは、そう考えたい。彼らの生きた証を、彼らの物語を無駄にしないために。
彼らの物語がとても美しく儚く切ないからこそ、このラストシーンは逆説的に熱いメッセージを放つものになっているのだ。
最後に『神々の土地』の神々とは当然キリスト教のことではない。キリスト教は、一神教なので神“々”となるのはおかしいからだ。では、この神々とは地母神信仰のことだろうか。それも違うと思う。願わくば、この神々とはキリストと地母神を表すものだと思いたい。彼ら神々はソヴィエトの台頭により、ロシアの大地からは姿を消した。だが、かつてのロシアで出来なかったことのやり直しをする、その機会を伺っている。誰もいなくなったけど、何もなくなった大地は彼らを覚えていて、ロマノフの子孫たちが再びここを“神々”の大地にしてくれるのを待っている。
これは私たちも他人事ではないのである。
ここまで読んでくれた人には、それぞれの「何故」と「答え」を考えてほしいと思う。「何故」分かり合えなかったのか、その先の「答え」とは何なのか。そして、彼らの意志をついでほしいと思う。物語は生きている。私たちと同じように。
2.宝塚の傑作ミュージカルとは…これからの宝塚
いささか唐突だが、宝塚の傑作ミュージカルとは何だろうか。『ベルサイユの薔薇』『ロミオとジュリエット』『エリザベート』どれも傑作だ。紅ゆずるのお披露目公演『スカーレット・ピンパーネル』の大盛況も記憶に新しい。
これらには全て原作があるが、宝塚版として劇的に生まれ変わっている。
しかし、宝塚が発信する思想とは、そうした潤色に留まるものだろうか。それを否定する気はない。ジブリ作品のほとんどは原作付きだが、ジブリの思想が色濃く反映されている。宝塚だって例外ではない。しかし、世界に例のない演劇環境を築くに至った宝塚歌劇には、もっと高みに登ることだって可能だろうと思うのだ。しかし、残念なことに今の宝塚は“停滞”してしまっているように思う。自らの作り上げたシステムの虜囚となってしまっているのではないかと思う。
宝塚暗黒時代とも言える停滞期を見事に克服し、100周年を迎えることに成功した宝塚歌劇だが、2018年、104周年を迎えるにあたって、また停滞期へ戻りつつあるように感じる。
宝塚にしか紡げない物語がある。世界唯一の劇団が担うべきは、世界唯一の物語を作ることだ。決して魅力的なスターシステムに依存することではない。
そして、それを達成するには、消費する側である観客も、自分自身の物語を見る目を育てなければいけない。受容する側のレベルが上がらなければ供給する側のレベルも上がらない。「まーくんカッコイイ」「うららキレイ」「まーくんと真風の友情アツイ」と言うのは結構だ。私も思う。大いに共感する。めっちゃアツイ。だが、もう少し、もう少しだけでいい。宝塚の魅力はそれだけじゃないだろう。つまり…物語の話をしようじゃないか。
3.物語とは
まさかここまで読んでくれた人はいないだろう。もし、いたら圧倒的感謝!コメントください!語ろう!飲みに行こう!僕と友達になってください!
…素が出つつあるので、結論を急ぐ。
物語とは、何なのか。
歴史という言葉の語源を知っているだろうか。先にも少し触れたが、実は歴史(history)と物語(story)の語源は同じなのだ。つまりどういうことかというと、演劇、映画、ドラマ、アニメ、マンガ、小説などはもちろん物語だが、歴史もまた物語であるということだ。今現在という時間は将来的には歴史となる。それが教科書に載るかどうかは分からない。だだ、私たちの小さな決断が、小さな行動が、縦糸と横糸のように折り重なって紡がれていき、それがやがて歴史となっていくのだ。私たちはまさに歴史の当事者であり、物語の登場人物でもある。
だからこそ、
演劇、映画、ドラマ、アニメ、マンガ、小説。私たちの周りに氾濫する物語との接し方を模索しなければいけない。物語は読むものではない。観るものでも聴くものでもない。考えるものだ。物語を消費する私たちには、考える義務がある。
考えなければいけないのだ。
漫画やアニメくらい、娯楽くらい、楽に見たいという気持ちも分かる。だが、思考を止めてはいけない。何かを感じる心を失ってはいけない。
全ての物語には「意味」がある。それは喜劇だろうと悲劇だろうと関係ない。萌えアニメにだって必ず「意味」はある。それは歴史という物語の当事者たる“人間”が創り出す物語だからだ。全ての物語(創作物)には、どうしたって作者の経験、思想、哲学などが反映される。全ての創作物は人の手で編集されている以上、その事実を薄めることはできても失くすことはできない。全ての物語が「考えて」創られている以上、全ての物語にはある種の「思考実験」が施されているのだ。
よく漫画家が原稿の仕上がりの遅れを「キャラが動いてくれないんです」と言い訳をする。しかし、これは言い逃れでも何でもない。「考えて」創っているのだから、そのキャラがどう動くのか、何を感じ何を決断するのかは作者にも分からない。作者自身、他人(キャラクター/しばしば自己投影されるものであるから準自分とも言える)の人生をシミュレート(思考実験)するという壮大な試みを行っているのである。
だから、その壮大な思考実験は時に人を動かすのだ。
そして、意識的、無意識的を問わず、多くの場合「何故」と感じたものの「答え」を求める作業となる。
つまり物語とは自分の知らない「何故」に触れることができて、作者も知らない「答え」を探すことができる“とてつもなく面白いもの”なのである。
そして、時にはその「何故」を追及するために、環境(世界観)を作り出す必要がある。表現方法を編み出す必要がある。ゴジラは核兵器への恐怖、ウルトラマンは在日米軍の比喩としてその批評力を獲得したように、それぞれの分野、ジャンル、または表現技法によって、様々な思考実験が可能なのだ。そして、我が国は世界に例を見ないジャンルや表現技法の多様性を獲得している。これはどんな宗教や哲学にも勝るとも劣らない、世界最高の思考実験の可能性なのだ。この財産を我々は決して手放してはならない。
宝塚歌劇もその中の一つである。女性だけで構成された演劇集団。宝塚が独自の化粧法と独自の表現法で獲得した宝塚独自の男性像は、まったくもって新しい無比の演劇環境を築き上げた。究極に理想化された(現実には存在し得ない)男性像は、男女の恋愛とも、同性愛とも言える独特のものだ。ここで紡がれる物語はきっとここでしか生まれない。このポテンシャルを十二分に発揮するには、やはり私たち観客がもっと物語を考える力を身に付けるべきだ。
今一度、たくさんの物語に触れて、それぞれの「何故」と「答え」を探してほしい。そして、彼ら(登場人物)の意志を継いでほしいと思う。物語は生きている。私たちと同じように「答え」を探している。より良い社会を作るのはきっと「物語」だ。
さぁ、
改めて、
物語の話をしようじゃないか。