Wild Journey

良き価値を取り戻すための荒旅

「もし、あの時、他の。」が、人間を運命から遠ざけ、選択不可能を理由に、人生、それ自体を逃避行にしてしまう。

僕は今まで、かなり自分自身を取り繕ってきた自覚がある。

取り繕いというか、単なるその場しのぎのカッコツケである。

そのカッコツケの根源は、他人からあー見られたいのだ、こー思われたいのだ、優越を示したいのだ、という浅ましい気分が九割である。僕が僕自身を見るとき、吐き気を催すであろう様相を示していることは間違いない。

 

結局、僕はありとあらゆることから逃げてきただけなのだ。

ただただ、他人からコントロールされたくない。俺の方が正しい。自分の間違いに気づけば、その時々、瞬間を誤魔化し、後出しで過去を修正する。

 

過去修正、それがカッコツケの残りの一割であろう。

 

「あの時、あーであれば、こーであれば、他の状況があれば…etc」

と、思索をめぐらすこと自体がもう逃げなのだ。

所詮、どのような状況にあっても、「あの時、あーであれば、こーであれば、他の状況があれば…etc」と、御託を丁寧に並べ出すような人間なのである。

 

僕は飽き性である。

というか、飽き性を理由に世界の広さから逃げているだけなので、物事を突き詰めることができないだけ。井の中の蛙であろうとする、この卑しい気持ちに早く終止符を打ちたい。でも、怖い。これを繰り返してきただけの人生である。井の中で、ずっと流れることのない腐敗した水の中で身を溶かしてきたのである。

そして言い訳が始まるのである、「もし、あの時、他の、、、」

 

目の前を、直前の過去を、今の自分自身を、ただただ受け容れる覚悟がないだけの弱い人間なのである。

 

ただ飽き性なので、そんな自分にも飽き始めている。

と言いながら、また言い訳が始まる。

 

 

 

二周目の彼女たち、一週目の僕ら 『少女終末旅行』論

※本稿は、同人誌版『Wild Journey』に掲載した文章に、若干の修正を加えたものです。

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意志がなければ、表象もなく、世界もない。

by ショウペンハウアー『意志と表象としての世界』

はじめに

少女終末旅行』を二周目の物語だと表現する人がいた。言い得て妙だと思った。本作は“大きな物語”がもう機能し得ない世界を舞台にしている。どういうことか。物語には主題がある。また、物語(story)とは歴史(history)の断片である

そして、本作の主人公である二人の少女、チトとユーリの生きる世界は“歴史の末端”を余儀なくされている。つまり、彼女たちの物語はどんな軌跡を辿っても歴史たり得ないものである。歴史を形作っていく物語(メインストーリー=一周目)が全て終了し、歴史の生産がもう行われない世界、そこで生きる彼女たちの物語(二周目)が本作である。それ故にこの物語は強力な主題(≒大きな物語)を持つことが出来ない。

本作は核戦争後を匂わせる世界観に、きらら系を思わせるキャラクターが登場する。少女二人が終末世界で旅をしている。その終末世界ではすべての生物(植物を含む)は死に絶え、機械と廃墟だけが残っている。都市の名残、世界の残滓、そこに少女二人。

これは絶望の物語である。世界を復興する人々はもういない。都市を再構築する機械ももう壊れかけだ。加えて、少女が二人では人類の火もそこで途絶えてしまう。国家という、人類という、文化という、文明という、大きな物語はもう機能し得ないということが分かるだろう。

先出しになるが、原作4巻で過去にカナザワから貰ったカメラを、潜水艦のモニターに接続し、カメラの前の持ち主や、その前の持ち主、更に前の持ち主らが撮影(録画)して、記録し続けてきた写真や動画の存在に気づく場面がある。その記録たちは過去の様々な人々の物語である。その数多くの物語を開き見るにつれ、チトとユーリは自分たちへと続く歴史の存在(大きな物語)を知っていく。ユーリは「こうして人々が暮らしてたんだなってことがわかると、少しだけ寂しくない気がする」とつぶやき、チトは「そうだね」と応える。その時、彼女たちは初めて本当の意味で歴史の末端に加われたのだろう。

くり返しになるが、彼女たちは文明、価値観、言葉すらもあやふやな“終わったあとの世界”で生きている。終わったあとである。世界を良くしよう/変えよう/滅ぼそう/守ろう/1から作り直そう、というあらゆる大きな物語の可能性が廃絶されている。きっと本来ならば、潜水艦のモニターに映し出された動画のなかの1つで登場した三人の少女たち(チトやユーリと同年代)こそがメインストーリーを担うキャラクターだったのだろう。そこではメインテーゼを背負う物語が紡がれたことだろうと思う。そうした彼女たちの物語がすべて過去のものとなり、彼女たちの物語の残滓として『少女終末旅行』という物語があるのだ。

もう出来ることはほとんど残されていない、そこで示されるテーゼはもう大きな物語たり得ない、それが本作の前提として理解されるところである。

ただ、本作が取るに足らない物語を供給するものだと述べる意図はない。むしろメインストーリーが終了した後を舞台としているからこそ、より人間的であり、より根源的なテーゼを提示しているといえる。いわば究極の小さな物語がそこにある。そして、それは逆説的に大きな物語をより良いものに変えていく

大きな物語から逃れらることのできない人間という存在が、終末においてどう「生きる」ことの規準を得るのか。換言すれば「生きる」ことの本質とは何なのか。そういった壮大な大風呂敷を広げつつ彼女たちの旅の軌跡を見ていきたい。

(彼女たちの世界に大きな物語はもう機能しない。しかし、私たちのこの世界ではいまだ大きな物語が機能するはずだ。なぜなら、この世界はまだ1周目なのだから。)

 

 

 

「いやホント、ドコにいるんだろうね、私たち」

はじめに その二

 まずは、未見の方のためにあらすじを載せておこう。

繁栄と栄華を極めた人間たちの文明が崩壊してから長い年月が過ぎた。生き物のほとんどが死に絶え、全てが終わってしまった世界。残されたのは廃墟となった巨大都市と朽ち果てた機械だけ。いつ世界は終わってしまったのか、なぜ世界は終わってしまったのか、そんなことを疑問にさえ思わなくなった終わりの世界で、ふたりぼっちになってしまった少女、チトとユーリ。ふたりは今日も延々と続く廃墟の中を、愛車ケッテンクラートに乗って、あてもなく彷徨う。全てが終わりを迎えた世界を舞台に、ふたりの少女が旅をする終末ファンタジーが今、幕を開ける。(TVアニメ「少女終末旅行」公式サイト)

本作は終末ものだが、悲壮感はない。冒頭にも述べたように二人の少女が、ただただ終末の世界を旅する日常系といった感じである。しかし、本作を日常系の亜種と捉えても良いものだろうか。本稿はジャンル批評を試みるものではないが、論を進めるために少しだけ考えてみたい。

確かに本作は日常系の定義に当てはまりそうではある。きらら系、『ひだまりスケッチ』の蒼樹うめや『苺ましまろ』のばらスィーを彷彿とさせるキャラクターデザインに加えて、本作の舞台は二人の関係性を脅かす諸条件(物語性、異性、社会性など)が排除され、最適化された世界観と言える。終末ものは本来ならばロマンをかき立てつつも明るいものではない。しかし、日常系の文脈で捉えると「みんな」(本作では二人)の関係性に否応なく訪れる終わりの気配をかき消してくれるものでもある。

日常系でしばしば用いられる「みんな」の関係性を維持しようとして働く想像力は、「みんな」という枠組みからの離脱を難しくし、「ひとり」の自立の機会を奪うことに繋がったりする。例えば日常系の代表作『けいおん!』は日常系において卒業を描くという果敢な挑戦をしつつも、学力が異なる主要キャラクター4人に同じ大学への進学を選択させるといった結末となった。やはり日常系の「みんな」という枠組みは同調圧を否応なしに抱え、良くも悪くもひとりひとりの世界をそこに固定するものである。

では、本作はどうだろうか。チトとユーリの関係性は、日常系の文脈に絡めとられるものだろうか。結論から言えば彼女たち二人の関係性は実に強固ながらも、それぞれの(ひとり、ひとりの)世界を拡張していく。世界の捉え方、言い換えれば、「生きる」ことを自分たちで定義づける強さがそこに見て取れる。

 

 

 

「この旅路が私たちの家ってわけだね」

旅のすゝめ

では、彼女たちの“自分たちで「生きる」ことを定義づけられる強さ”がどこから来ているのか。その要因を探っていきたい。ここで取り上げるのは『少女終末旅行』の「旅行」の部分である。

物語後半に、かつてこの世界に存在した近未来文明を支えた人工知能(AI)が、彼女たちに語りかける場面がある。「社会の利害とは無関係な場所にいるという点で旅人と神は似ています」これはとても重要な指摘のように思える。

キノの旅』という作品をご存知だろうか。旅人の少女・キノが、相棒の喋るモトラドに乗って、様々な国を旅してまわるという1話完結型のファンタジーである。訪れる国々は城塞都市となっており、国と国の間はどこの国にも属さない。そして、国々はそれぞれ独特な制度や技術、価値観を持ち、一見様変わりな文化を形成している。そうした国々の民らは自分たちの文化を妄信している。キノはそうした人々と、客観的視座を持って中立的に接していく。このように、キノが過度に文化化された人々と一線を画する客観的視座を持っているのは何故だろうか。それは彼らの違いに求められる。それぞれの国の人々とキノとの違いとは「住人」か「旅人」、あるいは「定住」か「放浪」かという点だろう。キノはひとつの国に3日間の滞在と決めて旅をしている。それが「丁度いい」のだという。人は「定住」すると良くも悪くも文化化される。それは先人の叡智の継承とともに、世界(観)を固定化することにも繋がるのだ。そして、キノが世界観の固定されてしまった国々や人々の中で客観性を維持できるのは「旅人」だからだろう。これが『少女終末旅行』においても人工知能から指摘された旅人の特性だろう。

つまり、キノに備わっている客観性は、同様にチトとユーリにも備わっている。「社会の利害」とはすなわちその社会の世界観(価値観)である。彼女たちは放浪生活をしているので、価値観が固定されることはない。加えて、彼女たちが「文化」「文明」「言葉」をほとんど受け継がない存在だということも客観的視座の獲得に大きく貢献しているだろう。彼女たちにとっては「見て感じたこと」が「世界」であり、「」の「表象」が「世界」であるということがそもそもの前提としてあるのだ。※もっとも(初期の)チトは、文化・文明・言葉によって世界を見るという特徴も見て取れる。

旅(放浪、遊動)は、定住ではない生活形態は、彼女たちを固定化された世界観から無縁にし、本来的生=「生きる」ことの本質を探究するための旅路への下地を整えた。しかし、社会と無関係の場所にいるということは、社会という中間項がごっそりと抜け落ちているということである(つまりはセカイ系の構造と一致する)。

小さな問題(生き方への問)を考えるとき、大きな問題(国家や社会への問)を考えないわけにはいかない。これらは別々の問題ではなく、互いを往還する問題であるからだ。それは国家や社会などが過去の遺物となり果てた本作においても変わらない。なぜなら、彼女たちはその遺物で生きているからである。大きな物語の延長線上、なれの果て、その末端に生きているからである。彼女たちがその遺物をその名通りのただ遺された物として扱っていたら、彼女たちはこの世界との距離感をうまく取ることが出来なかったのではないだろうか。絶望となかよくなることはできなかったのではないだろうか。地に足が着かなかったのではないだろうか。彼女たちは旅をしていくうちに、その世界との距離感とやらをだんだんと身に付けていくのである。

ここでは旅人の視座(価値観の固定からの脱却)について考えた。しかし、それはまだ直に世界の拡張をもたらすものではないことも確認した。自分の世界を広げようとするならば、よりよく生きようとするならば、多くの物語に触れることが必要だ。そして、彼女たちは旅を通して、多くの物語に出会うことになる。よって、次に彼女たちの旅がどんなものだったのかということを明らかにしていきたい。そして、ここまでは「旅人の特性」として、ふたりの共通して持っているものを考えてきた。しかし、これからはふたりの違いについて考えていこうと思う。

 

 

 

「寂しくない気がするね」

物語の収集

彼女たちの旅はどんなものだっただろう。それは二つの段階に分けて捉えることが出来る。1~5巻の「モノに触れ、人に出会い、色々なことを経験して感じ取る」段階と、5~6巻頃からの「モノを捨て、死へと対峙する」段階である。ここではその第1段階について考える。

彼女たちは旅人である。それも帰るべき故郷を持たない。旅こそが故郷であり、放浪こそが生活形態である。だからこそ、彼女たちは「文化」に拘束されることなく、自由な感性を得ることが出来たのだ。

もっともチトは少なからず「文化」なるものに拘束されている。そして、それは幼いころの読書やおじさんとの問答に根差している。ユーリはというと、全くないということはないだろうが、元々彼女たちが住んでいたであろう世界に地域社会といったものはなさそうであり、読書や社会といったものにあまり関心を持ってこなかったユーリの振る舞いや言動はかなり「文化」から自由なものである。そして、ユーリはチトに対して旅の道中に様々な疑問を投げかける。それは少なからず「文化」なるものに思考を拘束された存在であるチトや、我々読者に深く突き刺さる。「見て感じたもの」を世界と見做すユーリと違って、私たちは共同体で培った常識や、学習によって身に付けた知識を前に思考を一旦止めているのである。

つまり、ユーリは見るものすべてに疑問を呈し、チトはそれに答えるのだが、その答えは多分に(幼少時に身に付けた不充分な)常識や知識に依拠している。だが、その答えの担保となる社会性をユーリは持っていないために、その答えに対してさらに疑問を呈することになる。小さな子供の「何で?」に時折ハッとさせられるのと同じように、つまりそれは物事をパッケージ化して共通理解を確かとするための社会性が、つまるところ煩雑であり労力を要する「本当の理解」というものを省略するためのツールであるということに他ならない。これをひと言で表現すると「思考停止の装置」である。知識や常識、言葉というものはそれだけで理解した気にさせてくれるものである。しかし、本当はそこから一歩踏み込まなければ「本当の理解」など出来ない。ただ、いちいちそれをしていたら社会生活に支障をきたすので省略するのである。

以上をまとめると、常識や知識、言葉というものは「物事の理解」を手軽にパッケージ化したものである。だから、それだけでは「物事の理解」を充分にしたということにならない。しかし、社会を営むうえでは、不特定多数の人々が「物事の理解」を共有する必要があり、手軽なパッケージが要請されるのである。そして、社会で大人になっていくにつれて、それが全てだと、それで事足りるのだと思うものである。

しかし、ユーリは違う。ユーリは「見て感じたこと」が「世界」であり、「」の「表象」が「世界」である。まっすぐに世界を見ていて、直接的に世界と繋がっているのである。それに対して、チトは早いうちから、読書や問答から常識や知識を得ようと試みている。だから、社会で大人になるということの触りを経験しているのである。ユーリはそういったものを経験する前に、世界が滅んでしまった。これがふたりの違いである。

つまり、「見て感じたこと」が「世界」であるユーリとは違って、チトは常識や知識(文化)といったフィルターを通して世界を見ているのだ。人間である以上は少なからずそうなのだが、しかし、私たちは例えば「文化」という言葉もその意味も知っている。知っているからこそ識らない、識ろうとしないということがある。「文化」とは「文化」である。それ以上でもそれ以下でもない。しかし、そこをユーリなどが「それって何?どういうこと?」と想定外の疑問を投げかけてきて、答えに窮するということになるのだ。つまり、私たちは「文化」という「言葉」に突き当たり、その内にあるであろう実在(真理)を探そうとする思考が阻害されているのである。

探し当てられるべきは実在(真理)なのだが、実在は言葉を住み処とし、そして自分という存在はその住み処の番人をしている、ということにすぎないのだ。言葉が歴史という名の草原を移動しつつ実在を運んでいると思われるのだが、自分という存在はその牧者にすぎない。その番人なり牧者なりの生を通じて徐々にわからされてくるのは、実在は、そこにあると指示されているにもかかわらず、人間に認識されるのを拒絶しているということである。それを「無」とよべば、人間は実在を求めて、自分が無に永遠に回帰するほかないと知る。つまりニーチェの「永劫回帰」である。それが死という無にかかわるものとしての人間にとっての実在の姿なのだ。

これは西部邁の『虚無の構造』の一文である。「実在(真理)」を過去から現在、そして、未来へと運んでいく器が「言葉」であり、その軌跡を私たちは「歴史」と呼ぶのである。その「歴史」から逃れることが出来ず、「言葉」から逃れることが出来ず、しかし、そこに在ると思われる「実在(真理)」に私たちの手は届かない。その事実から逃れようと「自分探し」などをする者は、そうした拘束具を取り外そうとして「自分こそが実在だ」と叫ぶのである。すると、どうだろう。とても自由な世界がそこに在る。しかし、やがて悟っていくはずである。自分の中に「実在(真理)」などないことに。拘束具を外した気になって浮足立ったその足はそのまま宙に浮き続けるだろう。地に足つかず、ただ「自由」である者に世界は居場所を用意してはくれない。「自分」は居場所にならないのである。居場所とはあらゆる他者性に宿るのだ。

ユーリは「歴史」や「言葉」といった拘束具から比較的に自由であり、その感性は「実在」にとても近い場所にいる。しかし、時に彼女は危なっかしい。近未来兵器に搭乗した際にミサイルをぶっ放して爆笑するユーリに、違和感を覚えた読者は多いだろう。つまり、ここまで紙幅を費やして何が言いたかったのかというと、ユーリはすごい。しかし、本作はチトや読者が、ユーリのすごさにハッとさせられる物語ではないということである。本作は、ユーリにあってチトに足りないものチトにあってユーリに足りないもの、それぞれを補い合うことで彼女たちが「実在(真理)」に肉薄していく物語ではないかと思うのだ。そして、「生きること」という小さな物語の大きなテーマを追求する物語だと思うのだ。要するに「実在探し」の物語なのである。

では、ユーリの持つ「(言葉や歴史から)自由な感性」、二人の持つ「旅人の視点」とここまで見てきたわけだが、チトの持つものについてはどのように考えれば良いだろうか。それはひと言で表現すると「(言葉や歴史によって束ねられる)物語への感性」である。

では、こうしたチトとユーリの持つ想像力は、具体的にどう違うのか。いよいよそれを明らかにしていきたい。「モノに触れ、人に出会い、色々なことを経験して感じ取る」第1段階の話である。

旅をする彼女たちは様々な“”を拾ったり、触れたり、見たりする。または、カナザワやイシイといった“”や、自我を持った自律機械や人工知能(AI)と出会い彼らとささやかな触れ合いをする。その過程で“共感”するのである。その“物”から想像される小さな物語、出会う人々の小さな物語、そうした幾つもの小さな物語を拾い集めていく旅が彼女たちの旅である。

ユーリは先にも述べた通り、都市が燃えても笑い、大切な本を燃やしてしまい、お墓の遺品をそれとわかっても持ち出している。その“物”の意味、そこに介在する人々の想いや物語を想像する力に疎く、都市や物をただ現象として捉えてしまっている節がある。何度も述べてきたとおり、ユーリにとっては「見て感じたこと」が「世界」であり、それ以上のものは何もないのだ。

しかし、それもチトとの問答や、人や物との出会いから、自ら実際的に感じ取っていくにつれて変わってくる。物とはそれを使っていた/使ってきた人々の痕跡が残っているものである。その痕跡からチトはしばしばその人々に想いを馳せることがあるが、ユーリは「記憶なんて生きる邪魔だぜ」などと言ったりして、今にしか興味がないという感じがあった。しかし、ユーリが自らの手で都市を焼き払った直後に、潜水艦のモニターに投影された過去の人々の写真や動画を見る場面、つまり、本稿冒頭で挙げた場面に繋がっていくのだ。そこでユーリは「なんでちーちゃんが昔のことを知りたがるのか、少しわかったかも」と切り出し、「こうして人々が暮らしてたんだなってことがわかると、少しだけ寂しくない気がする」と告げたことは既に紹介したとおりである。カメラを介して、そのかつての持ち主だった者たちの無数の小さな物語(生きた痕)と、それら小さな物語が寄り集まってはじめて彼女たちの前に浮かび上がってきた大きな物語(歴史)に、彼女たちがやっと合流できた瞬間だったと言える。カメラに記憶された小さな物語(=私的な物語)がいくつも折り重なっていって、大きな物語(=公的な物語)が、つまりこの世界はなぜ滅んだのかという歴史を彼女たちに知らせたのである。それはチトとユーリの小さな物語が、歴史の末端に加わった瞬間でもある。

記憶(=歴史≒社会≒知識≒常識≒言葉)によって物事を捉え考えていたチトが、ユーリの影響を受けて「見て感じたこと」を大事にするようになっていった。そして、記憶(=歴史≒社会≒知識≒常識≒言葉)なんて生きる邪魔だと考えていたユーリが、チトの影響を受けて「歴史」を大事にするようになった。ふたりに欠けていたものをそれぞれが補い合って、ふたりはいよいよ「実在(真理)」へと近づいていくのである。

ここまでをまとめると、チトとユーリの旅は終末世界に辛うじて残る小さな物語を収集しつつ、自らの感性で世界を捉え直し、潜水艦における「接続」をきっかけとして、その思考が大きな物語(歴史)へと到達する。さぁこれにて材料は揃った!自己から世界へ、世界から自己へ、この往還が導かれた後は、生を全うするのみである。ここをターニングポイントにして、物語の収集フェーズ(第1段階)から世界の定義フェーズ(第2段階)へと移行していく。個人の生き方の問題(小さな物語)とその世界の問題(大きな物語)を己のものとした二人は、いよいよ最後の旅に出るのである。その最深部、あらゆる問いの根源的な答えを求めて。

 

 

 

「死ぬのが怖くて生きられるかよ!」

死への自覚/生への知覚

今一度、彼女たち自身の話に戻そう。彼女たちは旅を通して世界の輪郭をひとつひとつ確かめていく。現代に生きる私たちにはない真っ白な感性で世界と接し、自分なりの色を付けていく。そのような旅を可能にしたものとは何だろうか。

ここまでに彼女たちの強さは「旅」に起因すると論じてきた。「旅」は客観性をもたらし、世界の見方を自由にする。人々は定住すると少なからず文化化され、文化の中に含まれる常識や習慣によって知らず知らずに思考を固定されている。彼女たちは旅という生活形態の中で世界を自由に観測する感性を手に入れたのだ。

しかし、その自由さとは諸刃の剣であり、浮足立った足が浮いたままという事態を招きかねない。それがこれまで述べたきたようなユーリの行動によく表れている。自由とはそれだけでは良くも悪くも転びうる不安定なものなのだ。

対して、定住者(=住人)は大小あれど文化的存在である。その文化もまた諸刃の剣で、そのデメリットとしては再三述べている思考の固定がある。しかし、そのメリットの方も存外大きく、文化とは先人の叡智の積み重ねであり、たかだか十数年しか生きていない個人の思考をはるかに凌駕し、生きるうえでのあらゆる規準をもたらしてくれるものである。

この自由と文化の両立こそ、最強の剣となる。その自由と文化のバランスをどうとるかが重要なのだ。そのどちらかに傾倒すると、人々はその片割れへの想像力や寛容さを失うのだ。ここまで言えばお分かりだろうが、本作においてその片割れとはチトとユーリのことである。「片っぽずつ翼寄せあって飛ぼう」とは他作品(『ヤマノススメ』)の言葉だが、ふたりがそれぞれの良さを取り入れていく。それが本作の物語であり、その舞台装置が「旅」だったのである。

また、彼女たちはただ「旅」をするだけでなく、その道中に様々なものに出会い、その物語に触れていった。出会うものに共感し、その物語を内在化していった。物語に触れ、物語を収集し、そのエッセンスを自分の中に取り込んでいく。そして、その集約である大きな物語に触れて、小さな物語たち(つまりは自分たちを含む人々の営み)の連関と連続性を知っていく。そうして彼女たちは成長し、彼女たちの物語は終局へ向かっていくのだ。

さて、以上がここまでの本稿のまとめであるが、ここからはそのような「旅」を彼女たちに可能にさせたものは何かをより深く考えることにする。

本作には寺院が登場する。そして、仏教的な価値観が所々に見え隠れしている。そのひとつとして物語終盤のユーリの「生きるのはつまり螺旋のことだったんだよ!」という言葉にもよく表れているように螺旋(≒)のモチーフである。

仏教的な価値観を前提に読み解けば、本作には螺旋がしばしば登場する。最上階に上がる階段がまさに螺旋階段であるが、それを上へ上へと昇っていく。それはさながら死へ向かう旅である。物語を収集する旅(第1段階)は5巻の終盤にはほとんど終わる。では、いよいよその総括としての美術館~煙草工場にかけての旅路を追ってみようと思う。

チトとユーリ(の物語)は潜水艦において、たくさんの小さな物語の集合(=歴史)と接続したことによって、物語の収集フェーズの臨界点を迎える。彼女たちの内面世界はついに立つべき大地、自由と歴史のバランス(規準)を手に入れたのだ。それが「寂しくない気がする」という感覚にも表れている。

そして、美術館を見つけた二人は、古い時代の絵から新しい時代の絵へと、歴史をたどるようにして歩いていく。この美術館は外観から察するに円形の建物であり、1周ぐるっと回る構造になっている。ふたりは数々の絵を見て太古の人々の感情に共感を覚え、最後にはユーリが描いた絵を「アルタミラ洞窟壁画」の横に残していく。この「アルタミラ洞窟壁画」は人類最古(級)の絵である。その横にユーリの人類最後の絵が並べられたことは、本人たちの意図せぬところでとても歴史の循環を思わせる。彼女たちは人類の歴史の循環の中、原初へと還ったのだ。より根源的な人間らしさへと回帰したのだ。

そして、次に彼女たちは煙草工場を発見する。そこで、ユーリはふかした煙草の煙を眺めながら「死んだ人のたましいが全部この世界に留まっているとしたら、私たちの周りも見えないたましいであふれているのかもしれない。そして、見えないみんなでどんちゃん騒ぎをしているんだよ!それでたまに死んだ人のたましいとしゃべれたりしたらよくない?」と言う。しばらくしてチトが「死んだ人と話すことはできないけどさ…そこにもういない人たちと繋がるための方法はあるんだと思うな。私たち自身の想像力」と返す。このやり取りはまさしく総括である。ユーリが死者との対話(歴史)を語り、チトが想像力を語っている。それぞれがそれぞれの良さを補い合ったからこその集大成の台詞である。そして、今まで拾い集めてきた物語の欠片が歴史という形で組みあがり、彼女たちに内在化されていった物語が、想像力を研ぎ澄ましたのである。

こうして物語収集フェーズから、世界の定義フェーズへと移行していく。第二段階である。これ以降は拾い集めてきた物を捨てていくことになる。火薬をほぼすべて消費し、ケッテンクラートが壊れ、いくつかの弾薬を残して銃を捨て、燃料代わりに本や日記を燃やしていく。本格的に死へと対峙することとなる。

チトとユーリは「生命って終わりがあるってことなんじゃないかな」という感覚を持ち、死を「怖い」とは言いつつも、常に「死」「死後」について問答し、そのことによって現在の生を再確認していった。

目的的な生ではなく、そこにある「死」から目を背けることなく、向き合ってきたと言える。現代人の生は増大している。そうではなく、絶対的な他者である死にこそ本来的な生が宿るのだ。どうしようもない死、それが絶望であり、虚無である。それに向き合おうとした姿勢が「絶望となかよく」という思想であり、それは積極的ニヒリズムとでも呼ぶことが出来るだろう。

この死との問答から、現在の生ひいては現在を形作る過去にまで回る思考のサイクルを「永劫回帰」と呼んだり「無常」と呼んだりするのかもしれない。永劫回帰とはこのたった1回の生を全く同じように延々と繰り返すという、仏教の輪廻転生とはまた違った考え方だ。まったく同じ生をさながらビデオテープのようにただただ繰り返す。しかし、その1回性の連続は現在の生や過去をより良いものとして浮かび上がらせてくれるものである。 

さて、今まで述べてきた旅人の視点と世界との距離、物語の収集と内在化、死との距離感、これらが全て彼女たちのものとなり、いよいよ彼女たちは自ら世界を定義していく。その答えが最終巻、最後のやり取りである。最上階へ向かう螺旋階段、二人は1巻冒頭のように暗闇の中にいた。1巻の冒頭では「いやホント、ドコにいるんだろうね、私たち」と迷っていた。もしかしたら世界での自分たちの居場所を測りかねていたのかもしれない。とても比喩的な言い回しである。

そして、最終巻、暗闇の中、二人は手を繋ぎながら階段を一段一段登っていく。その中でチトは「私の手…ユーの手…肌に触れる冷たい空気…その外側にある建物…都市…その上に広がる空…こうして触れ合っている世界のすべてが私たちそのものみたいだ…」と語り、何もない最上階に着いた後にその時のことを思い返しながら「自分と世界がひとつになった気がして…それで思った…見て触って感じられることが世界のすべてなんだって」と語る。ユーリは「私もずっとそれを言いたかった気がする」と返す。

チトとユーリが出した答えは、「見て感じたこと」が世界であり、それは「私」そのもの、つまり「私」の「表象」であるということだ。それはさらに「私」の「意志」であり、「私」が世界を拡張する。ここでいう「見て感じたこと」には当然、物語の収集も含まれている。すべてを見て、すべてを引き受ける。それが全てを解放し、すべてを束ねる。そして、それは究極の諦めであり、究極の希望でもあるのだ。

 

 

 

「いつかすべてが終わると知っていても何かをせずにはいられない」

まとめ 

幸運なことに彼女たちの生きる世界は、実は3230年頃である。あぁ終末は遠そうだ。正直ホッとする気持ちがある。僕たちの世界はまだまだ終わらない。しかし、僕たちは一周目だ

本作は、二周目の彼女たちから、一周目の僕たちへと手渡されたバトンである。バトンを受け取った僕たちは、時の流れに従って、彼女たちにバトンを渡し返さなければならない。二周目の想像力を得て、私たちは一周目を生きる責任がある

では、私たちは彼女たちの二周目の想像力をどのように一周目に生かしていくべきだろうか。二つの観点から総括しつつ、まとめとしたい。その二つの観点とは「」と「」である。

まず最初に「旅」について。思考は世界に固定される。逃れることは難しい。そこで重要となるのが、再三述べてきた旅人の視点である。ただ、現代人が「定住」から抜け出して「放浪」することは難しい。しかし、何も本当に放浪の旅に出る必要はないのである。旅人の想像力を持つには「法外」に行けば良い。小さな小さな旅を重ね、法内を外から眺める力をつけること。そして、自分の手で規準を探り当てていくこと。内と外を行って帰ってくるという往還が、次第に真ん中(規準)を確定させてくれるのだ。それこそが定住社会に生きる私たちにとっての「旅」となりうる。

では、法外にいくとは何か。本作の世界ではそもそも法内などないのかもしれないが、その中でも子供でありながら「びう」(おそらくビールのことだろう)や「たばこ」をしていることは法外たり得るだろう。何も酒とタバコをしろと勧めている訳ではない。法を破ることを勧めているのだ!社会や常識の枠外に出る経験が必要なのである。それこそ「法」は「正義」のパッケージ化でもある。何が「正しい」のか。「見て感じたこと」を信じて考えてみるのである。

次に「死」について。それは1回性の中を生きる彼女たちと同様に、自分の死、世界の死をそこにあるものとして感じ取り、過去や歴史をより良き過去へ、より良き歴史へと変えていく循環を繰り返すことだ。己のなかで1回性を無限にくり返し、過去をより良きものにする。そのメッセージが本作なのである。それはチトやユーリ(二周目)から見て過去である私たち(1周目)でもあるし、私たちから見て過去のことでもある。過ぎ去った過去を現在に生かすよう生きるということだ。

本作への批評という意味では少し話がそれるかもしれないが、最後にハイデガーの『存在と時間』から一節を引用したい。少々難解であるので何となくで読み進めていただいて構わない。

現存在の覚悟が本来的であればあるほど、すなわち、死への先駆において現存在がひとごとでない際立った可能性からおのれをまぎれなく了解すればするほど、おのれの実存の可能性の選択的発見も、それだけ曖昧さと偶然性のすくないものになる。死への先駆だけが、あらゆる偶然的で〈暫定的〉な可能性を排除する。死へ向かって自由に開かれてあることだけが、現存在に端的な目標を与えて、実存をおのれの有限性へと押しやる。みずからつかみとった実存の有限性が、様々に差し出される安楽さや気楽さや逃避などの身近な可能性の果てしない群がりから現存在を引き出し、それを自己の運命の単純さへ導き入れる。ここで運命というのは、本来的覚悟性のうちにひそんでいる現存在の根源的な生起の仕方のことであり、その生起のうちで現存在は、死に自由に開かれてありながら、相続したものではあってもやはり自分で選びとったものでもある可能性のうちに置かれている自分自身におのれをゆだねるのである。

本稿で述べてきたように、チトやユーリの生と死の距離はとても近いところにあった。それは怖いとか怖くないとか、ただ単に状況的にそうであったということではない。それは死への自覚である。彼女たちは常に死に身近なところで死について考える(死へ先駆する)ことをした。死への自覚とはそれだけで現在の生への見方を変えさせてくれる。それどころか無数の過去を必然へと転換させる力があり、それを運命と呼ぶのである。「その死につきあたってくだけ散り、自分の事実的な現へ投げかえされることのできる存在者」であること、死へ先駆し、現在へと投げ返され、過去をより良いものにする。それが「よりよく生きる」ためのサイクルを回すのである。彼女たちは「死」への旅をしたからこそ、死への先駆を繰り返したからこそ「生きることは最高だった」という結論を必然的に得ることができたのではないか。それが1回性を生きる(≒永劫回帰)ということなのだろうと思う。

生を過大評価せず(増大させず)、生きるとは螺旋(死ぬこと)なりという理解が「絶望となかよく」という積極的ニヒリズムの生き方へと帰結していったと言うことも出来る。私たちもこの世界を覆い尽くす「絶望」となかよくなり、「生きるのは最高だった」と胸を張って言えるように、そして、次に繋いでいけるようにしようではないか。

 

さぁ僕たちからチトとユーリへ、その旅を始めよう。幸運なことに私たちの生きる世界は2018年現在である。まだまだ時間はありそうだ。(完)

 

沖縄離島旅記録

先日「沖縄離島旅記録」というメモを見つけました。そう言えば、このブログは「」についてあれこれ書こうというのが元々の始まりだったということを思い出しました。その名残が『Wild Journey』という名前でもあります。

それじゃあ、たまには旅の記事でも書こうか。しかも、この沖縄離島旅は本サイトを作ったきっかけともいえる旅なのです。もう4年前くらいのことになりますが、メモを見て思い出したことをつらつらと書いていこうと思います。

相方(だいまれ)とふたりで行った旅です。一週間くらい行ってたような気もしますが、4日間だったようですね。さて、それでは沖縄離島旅のすゝめ、始めます。

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0日目、

午後から、難波へ行き、

新海監督の『君の名は。』を見た。

めちゃくちゅ良かったぜ!

そして、その足でネカフェヘ。

 そう言えば、前日は君の名は。を観に行ったのです。たしか公開初日だったかと思います。当時、新海監督はまだまだ広く名前の知られた監督ではありませんでした。僕たちは秒速5センチメートル言の葉の庭などが大好きで、その時も新海さんの最新作だ!と、それならば旅行前に見ていこうとなったのです。「めちゃくちゃ良かったぜ!」と書いていますが、これは僕のクセでして。観た直後はだいたい何でも「こ、これは傑作だ…!」と言ってしまうのです。僕のTwitterを見ていただければ分かりますが、しょっちゅう傑作だ…!と言ってます。何でこんな言い訳をしているかと言うと、荒旅では君の名は。』以後の新海作品に批判的な論陣を張っているからです。『君の名は。』以後とは、僕たちが勝手に使っている分類ですが、明らかに「セカイ系からシャカイ系へ」あるいは「私小説から社会へ」の転換を見て取れますよね。…かなり、余談が続きますが、せっかくなのでもう少しだけ。僕個人としてはこの転換そのものは好意的に受け取っています。それでも『君の名は。』のラストや、『天気の子』が描く正義には批判的な感想を持っています。皆さんはどうでしょうか。僕は『天気の子』を見てそれはもうめちゃくちゃ感動したんです。「今の東京」がちゃんと描かれている。「僕らの気分」をちゃんと汲み取ってくれている。それは『君の名は。』以前の新海誠に、僕らが感じていた信頼感…つまり、この人は僕らの気持ちをちゃんと分かってくれているという感覚を確かに感じたのです。しかし、それでもこの作品が描く「結末」すなわち「提案」に乗る気にはなれなかった。

初っ端っから脱線が過ぎますね。ここでははこのくらいにしておいて、詳しくは日を改めるとしましょうか。ぜひフォローして続きをお待ちください!ということで、映画を見終わった僕たちはそのままネットカフェで一泊しました。

 

 

1日目、

難波のネットカフェで一晩を過ごし、

朝イチで関空へ。

2時間弱のフライトを経て、昼前に新石垣空港に到着。

バスで離島桟橋に向かう(540円)

石垣ドリーム観光でフリーパスを購入(4日間4500円)

その足で竹富島へ。

離島へのフリーパスは他2社も販売していて、

ドリーム観光より、便数は多い模様。

ドリーム観光の利点は船が新しくキレイな点と、

価格が安い点。

飛行機の窓から沖縄の島々が見えたときはものすごく感動しました。何て美しいんだ。はるか上空からでも分かる。「こ、これは絶対やばいやつだ」期待に胸が膨らみます。それはもうパンパンに!

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そして、石垣空港に到着。ババン!

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石垣島を拠点にすることを決め、さていくつ離島を制覇できるか。まずは、高速ボートのフリーパスを買います。いちいち買っていたらまことにたけーと思いますので、まとめてフリーパスを買いましょう。「便数」「行先の島の数」などによって、お値段は変わります。そうだったと思います(4,5年前の記憶)。僕らはもっともお安いのを買いました。便数は少ないですが、しっかりとスケジュールを組んでおけばこれで充分です。

これが高速ボート。

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「青く濁ってて逆に汚い!」とテンション上がりまくってた記憶があります。これが船着場。

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竹富島ではレンタサイクルを借りた。

定番の友利サイクル(ドリーム観光の特典で10%割引) 

まずは昼食、老舗の竹の子で八重山そば(650円)を食べた。

そして、桟橋と2つの浜へ行き、

魚すげーとか星砂みっけ!とか。

後半は道なき道へ。

険しい未舗装の細道をガタガタと漕いでいき、

3つ目の浜へ。

そんなこともあって、竹富島は終了。

まず最初に行きましたのは竹富島です。

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僕は二度目です。と、いうのも、修学旅行が八重山諸島小浜島竹富島西表島)だったのです。良い学校でしょう。朝にシュノーケル、昼にサイクリング、午後はハイキングといった、あまりにもアウトドア過ぎる修学旅行だったので、夜にはみんなぐったりでした。修学旅行定番の恋バナ☆彡なんてする元気もなく、定刻通りにご就寝~という思い出があります。

さて、竹富島ですが、これは実に良い島です。皆さんが思い浮かべる「沖縄らしさ」そのままといった感じです。琉球赤瓦というんでしたっけ。石垣に囲まれた、赤い屋根の家々が実に良い景観を保っています。

実は、竹富島には「竹富島憲章」というものがあります。これは島民が直接参加する形で、あるいは余所者の意見も容れる形で、島の景観や文化・伝統を守り、あるいは活かすという意識を醸成するための決まりです。そうした活動のおかげで、僕たちは素晴らしい体験をさせていただくことができます。離島は観光地じゃありません。生活の場所です。それを充分に意識してリスペクトする気持ちが大切です。※これはどこにでも当てはまることでもあります。そこに暮らしている人がいる。そこで生きている文化がある。僕たちは現地の生態系を脅かす外来生物ではなく、良き余所者であろうとすることが大切なのです!真面目な話をいたしました!

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竹富島ではほとんどの人がレンタサイクルを借りて、島内をぐるっと一周します。僕らも高速ボートのフリーパスに付いていた特典を使って、10%割引きで自転車を借りて、まず向かうは、腹ごしらえ。「竹の子」という実に沖縄なお店で、実に沖縄なお食事(八重山そば)をいただきました。

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そしていざ島内一周サイクリングへ。

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きれいな浜がいくつもあり、いい感じの桟橋がいくつかありました。とっても良かったです(うろ覚え)。

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あと浜には子猫がたくさんいました。前に来たときにも結構いたので、まぁ結構いるんでしょう。

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星砂がとれる浜なんてのもありました。これは定番ですね。まぁ星砂の正体は、死んだ有孔虫の殻なのですが、星砂をよーく見てみると、うん、死んだ有孔虫の殻って感じの見た目ですよ。ほ、星…?星かぁ?星かぁ。

カップルで見ればそう見えるのかな?

と言った感じです。あとは結構、道なき道を、天下の険道を、それはもう大冒険したような気がいたします。

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飛行機で着いたばかり、バスにボートに自転車に、移動に移動を重ねていましたので、一日目はこのくらいにしておこう。日が暮れるころ、石垣島へと帰参いたしました。たでーまー。

 

 

石垣島に戻り、地元の定食屋で、

それぞれソーキそば定食、らふてぃー丼定食を注文。

コンビニでビールを買い、石垣島を徘徊。

ネットカフェで就寝(1900円程)

 僕は沖縄ではたらふくらふてぃーを食べると決めているんです。ご存知でしょうか。そう、豚の角煮の上位互換です(諸説ありそう)。

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定食屋でらふてぃー丼をかっこみ、コンビニでビール(もちろんオリオンビールさ!)を買って、それを飲みつつ、夜の石垣島を散策しました。コンビニはたしかココストアに行ったような気がします。北海道のセイコーマートはまだまだお元気だと伝え聞きますが、ココストアさんはどうでしょうかね。当時も閉店間近のココストアをお見かけしたような気がしますが、まだお元気でやってらっしゃいますでしょうか。ローカルなお店はできるだけ残っていてほしいものですね。さて、夜の石垣島ですが…何も覚えていません。あのね、石垣島って何もないのよ。ほんと何もない(個人の感想です)。と、いうことで、石垣島ですが、これは実に良い島です。一日目終了。本日の宿はネットカフェ。あのですね、こんな阿呆はなかなかいないと思いますが、夏の沖縄は予約してないと宿ないよ。何でこんな当たり前なことを言うのかというと、僕らは何日滞在するかも決めてなければ、何処で泊まるかも決めていなかったのです。「別に野宿でいいじゃん」若いなぁ。

※沖縄では野宿、特に海岸線におけるテント泊などは禁止です。最悪の場合、お縄でしょう。良い子は真似しないようにしましょう。なぜこんな注意をするのかというと、残りの三日間…野宿です…!

 

 

2日目、

朝イチの船で西表島大原へ。

バスの1日フリー乗降劵を買い、由布島へ。

西表島から海を歩いて徒歩入島。

満潮時でも1メートルにも水深が満たないようだが、

この日は特に干潮に向かっていくタイミングで渡ったので浅かった。

ムツゴロウやハゼゴロウ(そんなものはいない)とふれ合いながら、

400メートルを歩いて入島。

2日目にまず行ったのは西表島が大原です。

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たしか高速ボートが止まる港が二つあるんですよ。たぶん。西表島はとてもデカいので。バスとか使って移動してください。ここでも、というか旅では基本的にまずフリーパスお得な乗車券を探したほうがいいです。僕が知る限り最強のそれは東京メトロ24時間券です。24時間、つまり日を跨いでも使えるうえに、東京メトロ全線が乗り放題なので、都外にも出れます。それでお値段、なんと600円!はっきり言って破格値でしょう。あとは、青春18きっぷですよね。値段は確か1万2000円くらい?だったかと思います。5日間、日本全国のJR線の快速までが乗り放題というものです。が、これ意外と知られていない印象があるのですが、金券ショップでばら売りされています。つまり、5日間分あるうちの1日分だけとか2日分だけという買い方が出来るんです。時期によって値段は変動しますが、はっきり言って、ばら売りはお得感に磨きがかかりますよね。

話を戻しましょう。西表島でまず行ったのは由布島です。と言ったら、若干意味が分かりませんが、由布島というのは、西表島からわずか400メートルくらいのところにあり、満潮時でも水深が1メートルくらいなので、潮次第では徒歩入島が可能なのです。徒歩入島…ってなんか良いですね。水牛が引く馬車(馬車?)に乗って入島することも出来ます。でも、なんかせっかくなので徒歩入島しよう。徒歩入島。カッコイイ。

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ちなみに水牛車はこんなん。

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こんな感じでズラーっと並んでます。

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実に絵になる光景ですねぇ。

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ムツゴロウとか小魚とかめっちゃいました。「ハゼゴロウ」ってメモはなんだろう。たぶんなんか「ムツゴロウおるで」「ハゼゴロウもおるよ」というしょうもないことを言って、ツボったんだと思います。わざわざメモを取るくらいツボったんだろうと思うのですが、旅の魔法か、箸が転がるお年頃のせいなのか、よく分かりませんが、まぁなんかこういうの生っぽくて良いですよね。と思ったんで原文ママのせてます。このしょうもなさ無意味さがライブ感です。

こいつがハゼゴロウです(違)。

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※車両が往来したりもするんですが、

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こりゃまるで災害だ。

そんなこんなで由布島に到着です。

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水牛が水に浸かっているのを見て

「だから水牛って言うんやなぁ」とアホっぽい事を言いながら

島内散歩。

途中、入園劵(600円)と引き換えでジュースをいただき、

蝶々園で黄金色の蛹を見たり、

旧小学校跡や貝殻館を見て、海を見て

だいたい2時間くらい回ってわりと満足。

そして、星砂の浜へ。

竹富島より星砂がたくさんあった。

水牛って、牛が水に浸かっているから、「だから水牛って言うんやなぁ」

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…これも当時の僕ら的には「ウケるw」って感じだったんでしょうか。これもまたライブ感があって良いメモですね。四年後掘り起こすと、こんなにも困惑させられるとは。旅のメモは残すべきですよ。

さて、由布島ですが、これは実に良い島です。実にノスタルジーな感じでしたね。旧小学校跡とか見たから、なおさらそう思うのかもしれませんが、かつては今よりも人がいたんだろうなぁとノスタルジックな感傷に浸らせる空気感のようなものを感じました。蝶々園では黄金のさなぎも見れますよ。

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念を送って羽化させました。
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「ノスタルジックな島に黄金のさなぎ」という字面はなんだか実に物語性がありますね。由布島は2時間くらい回ったようです。おそらくそれくらいで回りつくせる、そういったサイズ感の島でした。浜はキレイですよ。もうどこ行ってもきれいよ。そして、地味にここにも星砂がありました。死んだ有孔虫の殻みたいな形をしていました。

 

 

潜って魚と戯れてたら、だいまれくんが珊瑚で足を負傷。

素足で珊瑚の海に潜る愚行。

せっかく驚くほど近いキョリで色とりどりな魚がたくさん見れたのに。

あ、夕日がきれい。とかやってたら、

気づいたらバスがない。

宿もない。飯屋もない。歩こう、港まで。

6キロメートルある模様。腹へった。

けど、店がない。人もいない。灯りもない。そもそも電灯がない。

そんな時、道の傍らの祠のようなものの中に、

月桃もち1つ100円を発見。飢えをしのぐ。

由布島から出たら、西表島の浜に行きました。

ちなみに僕が以前に来たときはカヌーに乗りました。マングローブの汽水域(海水と淡水が交じり合う)で、カヌーに乗り乗り大冒険。これが結構難しい。舵のとり方、バランスのとり方、マングローブに引っかかったりしたときに、はてさてどう脱出すれば良いのやら、といった感じで。少し料金はかかりますが、やって損はないです。少なくてもカップルでアヒルボートに乗るよりかは随分と楽しいはずです。

山を登り滝のすぐそばハートの穴を見つけたりもしましたよ。

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話を戻し、浜ですが、本当にきれいです。

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水中で撮影ができるアイテムを持って行っていたので、潜って魚たちの動画を撮ったりしていると…相方がけがをしました。

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あろうことかビーサンも何も履かずに海に入っていたのです。これはとんだおバカさんですわ。そうこうしてるうちに夕日の時刻となりました。夕日と海。これは…映える(ルビ:ばえる)。しばし、撮影会。めっちゃいい感じに撮るぞ~

 

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とやっていたら、完全に日が暮れてバスがなくなりました。この時の僕らには知る由もありませんでしたが、これが恐怖の始まりだったのです。港までのキョリをグーグルマップで調べてみると、6キロある模様。大したことないっちゃないが、まる一日歩き回り泳ぎ尽くし騒ぎまくったのです。結構、限界でした。そして、もうひとつ日の暮れかけに限界を迎えようとしていたのが、スマホの充電です。

西表島という離島界の大都会でも、夜になると闇です。電灯もない。車も通らず、人もいない。そして、ついには僕たちのスマホも力尽き、明かりを失ってしまうことになるのです。そして、同時に迫り来たるは空腹でした。ここで、死ぬのか…?そんな時でした。祠のようなものの中に月桃もち(1つ100円)を見つけたのは。その美味いことこの上なし。ぜひ皆さんも西表島に行きました際には、ぜひ島内のどこかの道の傍にある無人販売所の月桃もちを探して食べてみてください。

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ふと空を見上げると満天の星空。

君の声が響いてもいいような綺麗な夜。

天の川がしっかりと視認でき、流れ星が無数に飛び交っていた。

もう流れ星が流れてるのがデフォルトってくらいに。

そう言えば星砂の浜で少ししゃべったおじさん、40歳で西表歴14年のマンゴーやパイン、野菜などを栽培している農家のおじさんと、港で再会。

深夜の港で、流れ星を肴にビールを飲む。

俺のおごりで←

言ってることの6-7割何言ってるかよく分からんかったんは訛りのせいだけじゃないはず。そうしているうちに…

でも、こういうのが旅の醍醐味。

酔いつつ野宿。良い子は真似しない。

さて、「この時の僕らには知る由も…」という煽りを入れたのは、先ほどのエピソードの振りではありません。

これからお話しするエピソードの振りです。

月桃もちで命を繋いだ僕らは、ついに港に到着することが出来ました。今日はここが僕らの宿です(野宿)。

さてさて、道中はなにも苦労だけじゃありませんでした。といいますのは、離島の夜空はハンパないのです。それは見事な天の川がくっきりと見えるだけではなく、なんと流れ星が絶え間なく流れ続けているのです。一晩あれば大抵の願い事はすべて叶え尽くしてしまうんじゃないでしょうか。

「あ、流れ星!」

「え、どこどこ!」

「ほらそこだよ、そこ!」

「見逃しちゃった〜悔しい!」

という会話などする余地がない。満天を埋め尽くさんばかりの流星の雨!圧倒的流星夜!

そうしてキャッキャと夜空を眺めていると、

「ねぁ君たち島の子じゃないよね?もっと星空がきれいに見える場所を知ってるよ。連れていってあげようか」と話しかけてきたのは、なんと!髪はカラスの濡れ羽色、肌は麦の黄金色、眉は遠山のかすみのよう、瞳はうるしの点を打ったようでいて、鼻筋通って形よく、口元しまって歯並びよく、珍魚落雁、閉月羞花の面持ちしたる琉球美人…ではなく、マンゴー農家のおっちゃんでした。それが現実の悲しいところ。

ですが一期一会の縁なれば「喜んで!」とご一緒しました。

途中でお酒を買いまして「ほら、ここなら星がきれいにみえるゾ~」っと満天の星空の下、お酒を飲み飲み、大いに語らいましたとさ。

そして、おっちゃん、お酒が回ってきたのでしょうか。「良い夜だ」と言いいながら、肩を組み組み、手を握り、終いには指を絡めて恋人繋ぎ。お気づきでしょうか。これこそが僕らが知る由もなかった恐怖です。

出会えば兄弟うちなーぐち。だが、穴兄弟になるのは話が違うぞ!(これは少し意味が違いますが)。しかも相方、気付くのが早かった。僕が恋人繋ぎを解こうと悪戦苦闘している時には、既に絶妙なポジション取りを完了していました。あぁ!しまった!

僕はインフレ気味の流れ星に願いました。早く、早く夜が明けてくれ〜!

命の危機に、貞操の危機。西表島はもう散々でした。しかし…

昼間に煌めく碧い海、夕日が照らす紅い海、星夜が溶け込む黒い海。西表の美しい海の三つの顔を見ることができました。結果オーライ、お釣りが来るぜ。この景色は忘れねえよ。ということで、西表島ですが、これは実に良い島でした。

 

 

3日目、

早朝に起床。

10時20分の鳩間島行き高速フェリーに乗船。

着いた瞬間悟りました。この海、格が違う。

比類なき透明度、さすが瑠璃の島

飯屋はまだ開店してなかったので、

空腹を堪えて、一足先に海へ。洞窟へ。

と思ったのだが、絶対道まちがえた的獣道に迷いこみ、

牛を熊と見間違えて超ビビる。

なんだ、牛か~、、、え、牛?!

鳩間の道は生き物の気配が色濃い。

舗装された人間の道には滅多に出てこないけど、

山羊やトカゲ、カニなんかは茂みの間に、

もしくは人がいないビーチにいたりした。

3日目は今回のメインと言って差し支えない。珊瑚礁で出来た島、瑠璃の島鳩間島です。 高速ボートが着岸するより早くどーっと視界に入り込んで来たるは次元の違う瑠璃の海。まずは腹拵えと思いましたが、10時20分現在どこの店も開いてなかったので、それじゃあ先に泳ぎに行くか。せっかくなのでめちゃくちゃに良いスポットを見つけるぞと意気込み、草をかき分け歩きに歩き、迷いました。しかも、この島、特に生き物の気配が濃い。草むらからザザッ!と音がして、恐る恐るのぞき込むと…大きくて黒い生き物が。熊だ!終わった…ここで、死ぬのか…?と思いましたら、でした。何だ、牛か~ビビらせんなよ~……え、野生の方ですか?ということがありました。他にも「でっけーカニ!」「かわいいトカゲ!」と騒ぎましたる都会っ子。カニやトカゲくらい町にもいるでしょうよ。そうするうちに、獣道を抜けてついに浜に出ました。海だー!と走っていこうとしましたら、何かいます。恐る恐るのぞき込むと…山羊さんでした。

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何だ、山羊か~ビビらせんなよ~え、野生の方ですか?田舎では普通のことなんでしょうか。野生の牛に、野生の山羊。放し飼い?と、まぁここの浜辺は先客に譲りまして、他をあたることにしました。

 

 

といってる間に獣道を抜け、外若浜に着いた。

自分たち以外に人はおらず、

岩と岩に区切られた砂浜はさながらプライベートビーチのようだった。

かなり遠くまで遠浅で、サーフィンすると気持ち良さそうな波が打ちつけ、

透明度抜群の海には表情豊かな珊瑚や魚たち。

そして、外若浜という浜に着きました。

人っ子一人おらず、このロケーションを独り占めです。これは素晴らしいプライベートビーチだ。

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もはや余計な修飾語は不要でしょう。見てください。どこまでも続きそうな遠浅の海。瑠璃色の海!

遠くから島の方を眺めてみると、下のように天然の個室みたくなっていました。最高じゃないか。

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のような具合で海を満喫していたら、

なんと全ての店で昼飯は完売しており、昼は抜きに。

しばしシャワーを借りたお店で涼み、ビールなどを飲んだりして

4時過ぎの船で石垣に戻った。

1日目に行った定食屋で夕食を。この日最初のごはん。

この日も港で野宿。

流れ星が流れていたが、そんなことはもうどうでも良かった。

鳩間島、最高かよ。と思っていたのですが、時刻は12時半頃でしょうか。ひとまず飯でも食い行くか。ということで港の方に戻ってみると「完売」「閉店」「営業時間外」空いている店がひとつもありません!あまり観光地化されていない離島などはこういう落とし穴があります。お気をつけください!

何とかビール(もちろんオリオンビールさ!)だけ確保して空腹を凌ぎます。

そんなこんなで、鳩間島ですが、これは実に良い島でした

石垣島に帰参しまして、定食屋でやっとのことありつけた、らふてぃー丼をかっこみ、港で野宿。この日も流れ星が流れていましたが、もうそんなことはどうでも良くなっていました。僕らは流れ星に飽きたのです。流れ星に飽きるという経験はなかなか出来ませんよ。

 

 

4日目、

6時過ぎに起床し、ファミマにスマホの充電にいく。

すごい親切で、長居を快諾してくれた。

野宿で切れかかっていた充電を補充。

この旅で、もっとも苦労したのはスマホの充電です。見るものすべてを写真に撮りますので、充電の減りがとても早い。食事処やコンビニなどで充電をするのですが、離島の方々はとても親切ですね。満充電になるまでおったらええんよ、と言ってくれることが多かったです。

 

 

9時20分の船で、黒島へ。

牛の放牧地などを横目に人のいない道を散歩。

山羊の発音について議論している内に伊古桟橋に到着。

港までの帰り道はトラックの荷台に乗せてもらいすいすーい。

行きの暑さ、長さが嘘のよう。

最終日にまず行ったのは黒島です。

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この黒島ですが、牛の養育頭数が島民の10倍を超える「牛の島」です。石垣牛などのブランド牛の素牛となります。ですので島の大部分が牧場になっています。島内、牛だらけです。また、島の形がハート型なので、ハートアイランドと呼ばれたりもします。なのでカップルで行ってみてはどーでしょーかー。

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これが伊古桟橋です。まるで海を歩いてるようだ…ってな感じでよく言われます。黒島の目玉スポットです。はい。

「山羊の発音について議論して」というメモはまったく覚えていません。はて山羊の発音に議論の余地があるんでしょうか…。

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そう言えば、道中で臨戦態勢のハブを見ました。ハブはわりと好戦的なので見つけたら一定の距離を取りましょう。

さて、港から伊古桟橋まではそこそこキョリがあります。歩いて帰るのはめんどくさいなーと思っていると、島民の方がトラックの荷台に乗せてくれました。旅っぽい!すごく旅っぽい!

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ということで、黒島ですが、これは実に良い島でした

 

 

一旦、石垣に戻り、1時40分の船で小浜島へ。

これで石垣島竹富島西表島由布島鳩間島、黒島、小浜島の計7島に上陸。

八重山諸島の大方を制覇。

最後に行ったのは小浜島です。これで石垣島竹富島西表島由布島鳩間島、黒島、小浜島の合計7島を巡りました。次は波照間島与那国島にも行きたいです。

 

 

小浜島では外間くんが戦線離脱。

一人レンタサイクル(1時間300円)を借り、製糖工場を曲がった所の坂道をぜーぜーはーはー言いながら登りきった先の景色は壮観。

かなり遠くまでまっすぐ伸びる道。登りきった道の方を振り向けば眼下に海が見渡せる。

その道をまっすぐ行くと海抜99メートルの大岳があり、291段の階段を登りきると、海や集落、サトウキビ畑などの爽快なパノラマ風景を一望できる。

登った甲斐あり。

相方が戦線離脱しました←

意外と体力ないんですわ(呆)。港で休んでる〜とのことなので、僕ひとりでレンタサイクル(ママチャリ)を借りまして、坂だらけの島内巡りへ出発!

大岳という小さな山があります。その階段を291段ほど登りますと…ババン!

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島内をぐるっと見渡せる絶景スポットです。眼下には海や集落、サトウキビ畑などが広がっています。

 

 

そして、また自転車をこぎ、集落に入って突き当たりを右に曲がると、

ちゅらさん(朝ドラ)で有名なこはぐら荘があった。

そして、その道を引き返しそのまままっすぐ行くと、

またまた、ちゅらさんで有名なえりぃが走っていたあの道、

シュガーロードがある。

北海道を彷彿とさせるどこまでも続くようなまっすぐの道をサトウキビが囲み、

海や牛の牧草地を見渡せる道。

高低差があり、自転車で走ると本当に気持ちがいい。

まるでサトウキビに吸い込まれるかのような感覚。

また、小浜島NHK連続テレビ小説ちゅらさん』のロケ地でもあります。民宿こはぐら荘として使用された家屋(現在は住人がいますので、写真などは許可を取りましょう)がまだ残っています。作中通りの看板がかかっています。また、えりぃの通学路「シュガーロード」もあります。

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北海道の道のようにずーっとまっすぐ続いています。道の両側をサトウキビ畑が囲みますので、シュガーロードです。えりぃのように自転車でスーッと漕ぐと、めちゃくちゃ気持ちが良いです。

高低差があるので、青い海とサトウキビ畑、牛の牧草地などを見下ろしながら、この長い長い下り坂を〜ひとりで下っていきます。「まるでサトウキビに吸い込まれるよう」とメモに書いていますが、本当にそんな感じで。爽快感があるだけでなく、非日常感もあって、最高です。

ブレーキいっぱい握りしめてゆっくりゆっくり下っていくよりも、ひとりでそこそこスピード出して下ってく方がおすすめですよ。

カップルより独り身の方が楽しめます。

 

 

あとは、修学旅行で泊まったリゾート・はいむるぶしに寄ってから

港に戻った。

しばし、レンタサイクル屋のおばちゃんと話をしてから、

船に乗り、石垣へ。

あとは修学旅行の思い出の場所を巡り、高校時代の色んなことに思いを馳せまして、この旅もいよいよおしまいです。

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小浜島ですが、これは実に良い島です

 

 

そして、バスに乗り空港へ。

空港の近くで野宿。ポケモンGOにビビる。

タクシー運転手のおじさんから、夜食(蜂蜜パン)を恵んでもらう。

そして、台風の影響もなく、無事に大阪へカムバック!

いよいよ帰阪しようということになりまして、石垣空港を一晩の宿として、明くる朝の飛行機を取りました。しかし、最後の最後に、最大の事件が起こったのです。

石垣空港は「営業時間22時まで」という衝撃の事実!追い出されました。関空に慣れていた都会っ子、地方空港の罠にはまります。石垣空港は辺鄙な場所にありまして、その辺で野宿する羽目になりました。そして、守衛さんが門を閉める際に、ひと言。「この辺、ハブでるから」

…。

相方と背中を預けるようにして、一晩を明かすことに。「血清もないから」

そんなこと言われて寝れるか!ということで暇つぶしに、当時流行っていたポケモンGOを起動しましたら…

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近くにいるポケモンを知らせる欄に、アーボが出てきました。

シャレになんねー!

そしたら、相方が「痛っ」

あ、終わった

と思いまして、「やられたか?」

「いや、分からねぇ」

スマホのライトであたりを照らすと

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すっごい小さなサソリが。僕は無言で検索しました。

南西諸島 サソリ 死ぬ

死なないようです。良かった良かった。

ということがありました。旅の最後に、良い話のネタも出来ましたので良しとしましょう、ということで、今回の旅はこれにておしまい。

※そう言えば、ちょうどこの時期に沖縄本島には台風が来ていました。きっと相方が雨男なので(生まれ持って運がないので←)、台風を呼び寄せたのでしょう。しかし、僕が晴れ男なので八重山諸島は小雨すら降りませんでした。海も写真の通り、とても澄んでいてきれいでした。沖縄に行く際は、台風にも気を付けなければいけませんね。ということでおさらいです。沖縄で気を付けるべき5つのこと。

1.野宿は厳禁

2.ハブに注意

3.飲食店の営業時間

4.台風の接近

5.マンゴー農家のおっちゃん

これで何となく落ちましたか?終わりです。

 

その他の風景

・バナナがありました

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・戦艦(輸送艦?)がいました
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・竹の子のマスコット?
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・大きなカエル
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・青色の小魚が泳いでいます
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・水に浸からない方の牛
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おしまい。

死に至れない病 『宝石の国』論

※本稿は、同人誌版『Wild Journey』に掲載された文章を少しだけ「整形」したものです。かなり荒っぽい文で、しかもダラダラ長い。いわゆる「あまり良くない文章」ですが、かつて荒旅で熱く議論を交わしたことを詰め込んでいるつもりです。『宝石の国』という傑作漫画を、近代主義(Modernism)の問題に引っかけて語っております。我慢して読んでください←

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私たちは整形されている

私たちは整形されている。執刀医は国家である。それは全ての国民に執行される。鏡を見て、他の人の顔を見て、そして気付いてほしい。私たちは整形顔である。そうすると、整形前の自分本来の顔を知りたくなってくるだろう。しかし、整形は不可逆的である。元に戻ることは出来ない。それでも己の「原形」を知りたいと思うのであれば…ひとつの方法がある。学問だ。あるいは研究だ。もしくは探究である。とにかく「本当のことが知りたい」と願い行動するならば、それはきっと己の原形を知る手助けになってくれる。

 

執刀医・国家が私たちを整形するのであれば、その術式はどんなだろうか。どんな麻酔を打ち、どんなメスを入れるのだろう。メスはその時の為政者によって異なった愛用のものがあるだろうし、なかなか特定は難しい。しかし、麻酔の方は簡単である。文化だ。これは最も厄介で、最も優秀な麻酔なのである。文化とは共同体の空気である。空気が麻酔であるのなら、私たちはいつの間にか眠りこけている可能性がある。あるいはその空気が毒されていれば一気にパンデミックが拡がる危険性もある。空気とは必要不可欠である分、とても厄介なのだ。

 

 分かったような事を言って、まるで本筋が見えてこない。しかし、これは必要な議論なのである。『宝石の国』という作品を読むうえで、「整形」と「空気」はキーワードだ。と思うのだ。それでは始めよう。本稿はアニメ化された部分を中心とした『宝石の国』の論考である。

 

 

私たちは制服を着ている

 私たちは制服を着ている。ご存知だろうか。我が国は制服大国である。街中にこれほど制服があふれる国は他にはない。そう言えば…宝石たちも制服を着ている。白いシャツに黒い服と黒いネクタイ、そして、黒いショートパンツ。色とりどりの宝石たちは皆、同じ白黒の服を身に纏っている。そして、原作者の市川春子によると、宝石たちが着ているのは喪服なのだという。しかし、そこに本当の意味での真剣さはない。なぜなら、宝石たちは死なないからである。死なないのに喪服を着ているとは何とも滑稽な話である。

 ここで、まず最初に本作のあらすじをざっくりと説明しておきたいと思う。本作は擬人化された宝石たちの物語である。主人公はフォスフォフィライト(フォス)。硬度三半と脆く、最年少の三百歳である。彼らは宝石なので死ぬことがない。それは寿命がないという意味でもあるが、どんなに割れても元に戻せるのである。フォスは割れやすい宝石なので、しょっちゅう割れている。しかし、首がもげようが、全身が粉砕しようが血すら出ることはない。従来の擬人化作品とは違って人間としての特徴はほとんどその外見だけである。そして、彼らには性別すらない。皆、女性のような見た目をしているが一人称は「僕」「私」「俺」などバラバラで、お互いを「彼」と呼ぶ。さらに「宝石たちは全員、プロポーションは基本同じ」という設定がある。彼らは実に多種多様な性質を持ち、色彩豊かなビジュアルをしているが基本的に似たような見た目になるように造られている。そう、彼らは整形されているのである。原作第7巻のある会話を引用したい。第7巻はアニメ化されていない話なので、軽くネタバレになることをご容赦いただきたい。以下はフォスがウェントリコスス王の子孫ウァリエガツスと出会った時の会話である。

ウァリ「(宝石たちの国は)不死の美形の国とも伝わっております。確かにみなさま、粒ぞろいの美しさ」

フォス「ああ、それは先生が生まれた僕らを少し削って調整しているんだ。性質に差がある分、せめて見た目だけは平等になるように…」

ウァリ「優しい方ですね」

フォス「どうかな

宝石たちには彼らを束ねる先生がいる。その名を金剛という。金剛先生は宝石たちにそれぞれの個性や能力に応じて仕事を与え、彼らを守り導いている。「守り」というのは、彼らには天敵がいる。定期的に空の黒点からやってくる月人と呼ばれる存在だ。月人は宝石が大好きで、宝石たちを装飾品にするために攫いに来る。金剛先生と宝石たちは自らの安全を守るため月人たちとの戦いの日々を送っている。

その金剛先生は、宝石たちが生まれるとその顔を削り整えているのだという。文字通り整形しているのだ。しかも、その理由が「せめて見た目だけは平等になるように…」である。とても違和感を覚える理由だ。まるで美しいものにしか価値がないと言われているようである。あるいはこれが美しいのだと美しさの定義を勝手に決められているようでもある。

「優しい方ですね」と返すウァリエガツスに、フォスははっきりと返せない。以前のフォスであれば「ま、僕が一番りりしいけどね!」などとおどけて返していただろう。というのは物語序盤のフォスは天真爛漫なお調子者で、何も出来ない故にひとりだけ仕事をもらえていないにも関わらず、自信だけはあるようなキャラクターだった。しかし、様々なトラブルに巻き込まれていくうちに(ほとんど彼自身が引き起こしたものではあるが…)、両足部分の宝石を失ってしまう。そして、失くした宝石の代わりにアゲート(色々な石が層状になった、一概に何とは言えない様々な混在。フォスの場合は貝殻が変化したもの)を代用した。するとなぜか飛躍的に身体能力が向上し、次第に月人との戦いに参加するようになっていく。その後、何度も身体を欠損紛失し、代替の異物を自身に加えていくようになる。その度にフォスは能力を覚醒し、強く賢くなっていく。しかし、それは自身の宝石部分を失うとその割合分の記憶も喪失することとなる諸刃の剣であった。

また、フォスはいくつかの出来事を通して金剛先生と月人の関係を疑うようになっていく。原作第4巻、アニメでは終盤のフォスとシンシャの会話を引用したい。

フォス 「僕は先生がなにか隠し事をしている気がする」

シンシャ「月人との関係か」

フォス 「知ってたのか!ならどうして」

シンシャ「みんな知ってる。正確には全員が勘づいているだけで、本当のことは誰も知らない。暗黙のうちにそれがどのような間違いでも、先生を信じると決めたわけだ」

―中略―

シンシャ「おまえはどうする?」

フォス (僕は本当のことが知りたい)

 

これは本作屈指の名場面だ。「本当のことが知りたい」という感情は本作で最も重要なテーマであり、最も鮮烈なメッセージである。本稿で関心を持っていただけた未見の読者がいるならば、ぜひともこの場面を読んで観て大いに感動していただきたい。

さて、ここまでで二つの会話を引用したことには意味がある。フォスの変化について、もしくはフォスが宝石たちの暗黙了解から抜け出したことについてと言い換えた方が良いだろう。このことについて、ひとつの解説を試みたいと思う。フォスはなぜ二、三十人もいる宝石たちが皆、先生を疑わないという暗黙了解に収束しているにも関わらず、一人だけ「本当のことが知りたい」と思うに至ったのか。これを考えずには本作を語れないだろう。本稿は大枠ではずっとこのことについて考えていくことになる。

つまり、私はこう思うのだ。宝石たちは整形されている。それ故に本当のことが知りたいとは思わない、と。そもそも宝石を擬人化するという作劇上のアイデアについて、そこに何か比喩的な意図が含まれているのだとしたら、私は次のように考える。「長い時をかけ規則的に配列し結晶」となった彼ら宝石は、私たち近代人のメタファではないかという推論だ。

近代(Modern)は模型(Model)の試みであると表現すればいくらか想像できるのではないかと思う。近代人は潔癖である。というのも、模型化がその行動原理にあり、合理化と発展を目指すパラダイムに支配されているからである。そこでは複雑性やイレギュラーは排除される。規則的配列を持つ宝石たちも潔癖だ。例えば、ダイヤモンドは草を食べるカタツムリ(フォスと思い込んでいる)に対して「だめよ!草なんか食べちゃ野蛮よ!中が汚れちゃう!」と言ったりしている。そこらへんの草を食べるヤツに草なんか食べるな!と言うのは自然なことだが、中が汚れるという言い方には少しひっかかる。そこには異物への拒否感や、キレイさへの執着を感じるからだ。こうした点も踏まえて、宝石と近代人はよく似ていると思う。よって、本作を近代人(近代的大衆人)に向けた物語だと捉えることも可能なのではないかと思うのである。

それでは、本項のまとめとして、宝石たちが近代人なるものの性質を持つ理由について、より詳しく見ていきたいと思う。その大きな要因としては、金剛先生の存在があると考えられる。金剛先生によって宝石たちは整形されている。もっとも、金剛先生が黒幕である、つまり悪いヤツであるとは考えていない。金剛先生は真に宝石たちのことを考えている。整形しているという自覚もおそらくないだろう。しかし、結果として宝石たちはその規則的配列という性質によるところも大きいだろうが、それとは別に金剛先生によって整形されているのである。金剛先生は続々と生まれてくる宝石たちを束ねて、外敵に対処するために共同体を形成する必要があった。親であり、先生であることを強いられた金剛先生は彼なりの信念で宝石たちを導こうとしたのだろう。そして、彼も整形された存在=合理的に造られた存在であり、その行動原理に従って最善を選択しようとしているということも指摘できる。

さて、彼が宝石たちに施している術式として、具体的には次の三つを挙げることが出来る。まずは先述したように顔の整形そのものだ。そして次に、彼らに同じ服(制服)を着せていることだ。さらに、彼らに仕事を与えていることである。

これらは些細なことにも思えるが、実は重要な設定ではないかと思える。例えば、制服には集団からの個性の消失、同質化の効果があると言われている。もちろんこれは強弱の問題だと考えられるが、自尊心が暴走しがちな学生は決められた学生服に対して、ダサい柄Tシャツやスカート丈などで抵抗を試みたりする。しかし、その程度が限界であり、やがては集団の規律へと収束させられる。それでも自尊心を発散したい学生はどうしたら良いものか。それをカバーするのが部活だったり、クラス活動であったりする。それっぽい理由をつけて役割を与えさえすれば、精神的な成熟途上にある彼らを効率的に管理できるのである。自由を与えすぎず、かといって拘束もしすぎない。学校教育は多かれ少なかれそういう側面がある。つまり、自尊心の暴走を緩やかに統率し、一定の枠外へとはみ出してしまわないようにするのが教育だ。そうして集団の空気が醸成されていく。私たちは自分の個性を確かに感じながらも、緩やかな統率に対して無自覚であると言える。みんな同じような顔をするようになる。現代教育は特にその傾向が強い。ほとんどが受験のために合理化された教育であり、だいたいの道徳教育なるもの、地域学習なるものはちゃんとやっていますという方便のために存在しているようなものだ。画一的な現代教育は複雑性を排除し、イレギュラーを認めない姿勢を隠そうともしない。そうして量産されていく近代的大衆人は、まるで本作の宝石たちそのものである。

宝石たちを見てみると、性格も性質も実に多種多様で個性にあふれている。しかし、もっとも大切なところの考えはみんな驚くほどに一様である。自分たちの指導者である金剛先生が敵である月人と通じている可能性を認識していながら、その疑惑をそもそもないものとして処理してしまう。そして「本当のこと」の追求を放棄し、数千年もの間まったく変わらない戦いの日々に身を投じてきたのである。抜本的解決も、真実の追求も、月人に攫われた仲間の奪還も、彼らは真剣に取り組んではいない。

少し話題を変えよう。本作では、彼ら宝石の起源として次のようなことが語られる。かつて「にんげん」という有機生物が滅んだとき、それは長い年月をかけて海を漂い、やがてに分かたれた。魂は月人に、肉はカタツムリ(?)に、そして骨は宝石たちになったという。つまり、この三者には「人間性」が分配されていると考えられる。

それでは、規則的配列という身体的特徴が与えられている宝石たちに分配された人間性とは何だろうか。先述した通り、それは近代人としての性質だと考える。個性がありながらも画一的、その結果として数千年間何も変わらない日常をそこに作り出した。そして、彼らは整形され制服を着て与えられた仕事に勤しんでいる。そこには専門人としての側面も見て取れる。専門人とは「総合人」の対義語である。専門人は物事の全貌を見渡すことなく、その一面を以って世界と接していく人々である。世界とは様々なものの総合であるにも関わらず。宝石たちも完全な分業化の下、自分の役割だけに意識を費やしている。だからこそ、総合的なこと=本当のことに興味関心が向かないのではないだろうか。

以上の点から金剛先生の教育方針を垣間見ることが出来る。金剛先生は宝石たちが生まれるとまず教育をする。だからこそ、先生と呼ばれているのだ。その教育内容の詳細は定かではないが、整形と制服から考えるに、「性質に差がある分、せめて見た目だけは平等に」というような教育方針だろう。ただでさえ規則的配列を持つ宝石たちは金剛先生の手でさらに画一的に整えられていったのだ。

それが金剛先生のメスだとしたら、麻酔も存在する。麻酔は既に述べているように、卒業後に彼らが与えられる仕事である。彼らの仕事はその個性や性質に応じて金剛先生が決めている。仕事を与えられてからは専門人としてその仕事を全うする。

ルチルは「過酷で役立つ仕事は自分の存在に疑問を抱かないためのよく効く麻酔です。解決を先延ばしにしている間に死ぬこともできない私たちは代案が見つかるまで耐えるしかありません」と言った。これは夜に閉じこもるシンシャについてフォスに語っている場面だが、シンシャだけに向けて言っている言葉ではないだろう。

彼らは分業化された仕事を個々に専門人として与えられることによって、そしてその仕事に没頭することによって、その枠外のこと、例えば…自分の存在を問うことを忘れ、世界について思考することを忘れ、ただただ仕事を熟すだけの受動的存在になっている。月人の襲来という危機に対して、それぞれが専門的に対処する。その繰り返しが彼らから能動的な思考を奪っていったのだ。

また、「にんげん」の分たれたひとつであり、フォスと偶然出会ったカタツムリ(ウミウシ?)のウェントリコスス王は、フォスに次のような話をしている。「我が一族は(中略)月の甘い水と砂で肥大化し飼われるうちに思考を奪われた」と。しかし、これもウェントリコスス王の一族に限った話ではない。「月の甘い水と砂」が「大好きな金剛先生と与えられた仕事(専門的役割)」に置き換えられただけに過ぎない。思考停止、思考の画一化という整形にあたって、使われたメスがどちらであったかの違いでしかない。

宝石たちは「金剛先生のことが大好きである」ことと、「金剛先生から仕事を与えてもらった」ことで、金剛先生を中心とした優しい世界(甘い水)において、金剛先生に用意してもらった居場所(砂)が与えられている。そして、その優しい世界を壊してしまうことを恐れるあまり、宝石たちは「思考を奪われた」のである。

そうして醸成されたのがこの優しい世界を壊さないための暗黙了解という「空気」だ。そして、やはりそこに真剣さはない。優しい世界への逃避があるだけで、そこに真剣な(あるいは本質的な)思考は介在していないからである。さて、既読の方はご存知だろうが、ウェントリコスス王はフォスとの出会いの場面において思考を取り戻すことが出来た。どのようにして取り戻したのだろうか。それは塩水に浸かったからだった。塩水に浸かることで動物性から人間性を回復することが出来たのである。それは甘い水=塩水の対比以上に、彼らが海に住む生物だからだ。きっと帰るべきところに帰ると思考を取り戻せるのだろう。

 

 

 

私たちは宝石にされている―閑話― 

私達は宝石にされている。ここまで述べてきたように宝石たちは、私たち近代的大衆人そのものだ。私たちは整形されている。その事実に気付いたとき、私たちは初めて自分の存在に疑問を持つことが出来るのである。そして、自分の存在に疑問を感じたとき、私たちは初めて思考を取り返すことが出来る。自己存在への問い返しなき思考など、思考ごっこに過ぎない。本当のことが知りたいという欲求は、自分は何者なのかという疑問から生じるものであるからだ。自分は「優しい世界」という人格の一部ではなく、この世界に生きるたったひとりの自己であるという自覚から生じるものであるからだ。本作は「にんげん」が三分割されて生まれた宝石たちが、おそらくその過程で失って、その後々に強められていった思考の欠如から、回復しようとする物語ではないか。

しかし、私たち現実の人間も「自己存在への問い返し」や「本当のこと」など何それ美味しいの?状態である。私たちはまさしく甘い水で飼われていると言わざるを得ない。美味しいもの、甘いものにしか興味がない。そうして何者かに飼いならされていくうちに、自分の存在を見失っている。これは言うまでもなく大衆人の特徴である。私たちはまるで三分割でもされたかのように、そうして大切な何かを削り取られたかのように、欠落した生を送っている。

あるいは、私たちは社会進化論パラダイムに支配され、文明は常に一方向的に進化する、つまり変化=単線的な前進だと思い込んでいる。その背景には古代から近世は単線的に発展して近代(現代)に到達したという前提に立って、さらにはこの近代という時代を模型化して把握できるはずだという思考があるだろう。模型化という試みは、余計なものを削ぎ落としていく作業である。複雑から単純への整理であり、世界をそれで表すことが出来るはずだという驕りだ。世界とはそもそも原石それ自体であるはずなのに、いつしか加工された宝石を世界と呼ぶようになった。これは言うまでもなく近代人の特徴である。

前者が大衆人で、後者が近代人…前者がカタツムリで、後者が宝石である。そして、彼らを加工して飼っているのは月人だ。月人は死を願い救いを求めている存在で、そのためなら手段を選ばない攻撃性を持っている。この月人・カタツムリ・宝石は、「にんげん」の魂・肉・骨である。三者とも全て人間性から派生し、変化していったのである。つまり、本作は「にんげん」という存在による壮大な自問自答であると言うことも出来る。

しかし、彼らは故郷がある。月人は月、カタツムリは海、宝石は孤島。そこには住処があり、共同体があり、文化がある。文化は共同体の空気であり、麻酔だ。そこで生まれ育つ者たちは、生まれた時からそこの空気を吸っている。そこから俯瞰して自己存在を見つめ直すことなど思いもつかないことだろう。

では、空気に抗うにはどうすれば良いのだろうか。どうすれば自己存在を問い返し、本当のことを知ろうとする思考の営みのスタートラインに立てるだろうか。それは他者と出会い、対話する事である。次項ではいよいよフォスがどうやってそのスタンスを手に入れたかに迫っていき、結論へと向かっていきたい。

 

 

私たちは死に至れない病に侵されている―結論―

私達は死に至れない病に侵されている

ここで一旦これまでの議論をまとめよう。宝石たちが近代的大衆人なるものであることは以下が原因だろう。

①規則的配列という身体的特徴。整形と制服。そうしたキレイな身体からもたらされる思考の画一化。近代人的特徴。

②大好きな金剛先生との日々(甘い水)と、外敵の存在。与えられる専門職。そこから導かれる暗黙了解という空気。大衆人的特徴あるいは専門人的特徴。

宝石たちが「本当のことが知りたい」と思わない第一の要因は宝石そもそもの規則的配列=近代人的特徴、第二の要因は金剛先生による教育(制服と整形と仕事)=専門人的特徴だと述べてきた。

その結果として優しい世界に閉じこもり、真実に蓋をする大衆人的特徴が生まれてくる。また、第二の要因に「外敵の存在」と書いてあるが、実はこれも厄介な問題だったりする。外敵、つまり月人は宝石たちを攫いに来るが、攫った宝石たちを装飾品にして身に付けており、月人を倒せば僅かずつではあるが宝石を回収できる。これが宝石たちが奪還作戦の「だ」も言わない理由である。寿命の制約がない時間の無限性と、修復可能な身体は、受け身の戦闘でもやがていつかは同胞を助けることが可能だという認識を生む。実際には宝石は月において修復不可能なまでに粉砕されている(即ち宝石たちにも死がある)ということが明らかになる。

しかし、それは想像出来ないことだっただろうか。数百年間、蘇った宝石はひとりも居なかった。要するに何が言いたいのかというと、危機すらも整形されていたのである。月人たちは宝石たちが受け取る危機や絶望をちょうどいいくらいに調整していたのである。その結果、宝石たちの思考の放棄はより深まっている。真の絶望は「決断」か「諦め」を促すものになりかねないが、調整された危機や絶望はいまある認知(暗黙了解)を維持しようとする働きを促す。いまある認知を否定する要素を思考の枠外に押し出し、その誤謬を認めない。これを認知的不協和という。認知に合わない要素を思考の枠外に押し出すのであるから、望ましい認知以外には何も残らない。思考は放棄されるのである。

そして、最後にもうひとつ、本項において第三の要因を付け足したいと思う。また、これが最大の要因ではないかと考える。その要因とは…「死に至れない身体」そのものである。何度も述べてきたように、彼らには寿命もないし、どんな外傷でも致命傷にならない、どうやらその身体性に最大の要因がありそうである。

そのことに論を進めていく前に前提条件を整理していきたい。宝石たちが「本当のことが知りたい」とは思わず大衆人的停滞に甘んじる要因が①近代人的特徴 ②大衆人的・専門人的特徴=認知的不協和 ③身体的特徴(死に至れない身体)であるならば、同族であるフォスがそこから抜け出せた要因は何かという話である。そこに私は問題点と活路を見出したい。そして、ここで提示するキーワードは「他者性」だ。第三の要因、死に至る身体の話をする前にまずはこの話をしたいと思う。

 フォスは死なない。しかし、壊れやすい。ということは相対的に死に近い存在だと言うことが出来るかもしれない。しかし、それでも死ぬことはない。フォスが暗黙了解から抜け出せた要因として「壊れやすい」という特徴を挙げるには少し弱い。

では何なのか。それがフォスだけが手に入れた「他者性」である。フォスは肥大化したカタツムリに捕食されて一度貝殻の一部となってから、宝石たちの中で唯一カタツムリと話せるようになった。そこでフォスは宝石たちの中で初めて他者を獲得したのだ。宝石たちにとって宝石たちは他者ではない。それは孤島という隔絶された土地において、金剛先生という同じ親、同じ先生のもとで学び、同じ目的のために仕事をしている仲間だからである。既に何度も述べてきたように、個性は豊かだが肝心な考えは一様であるのは、同じ文化=同じ空気を吸って過ごしてきたからに他ならない。その文化(空気)しか知らないのだから、そこから脱しようもないのである。

しかし、フォスは異なる文化(空気)で過ごしてきたカタツムリという他者を得る。この他者性の獲得は、フォスを一歩だけ常識の枠外へと連れ出した。次にフォスは度重なる身体の欠損紛失で、自身の身体に次々と異物を組み入れていく。これにより規則的配列という身体的特徴は薄らいでいった。そうすると群れから抜け出したフォスは、宝石たちを新たな他者として再観察することが出来る。それまで三百年も生きてきて考えもしなかったことを考えるようになっていく。他者と出会い、異物を取り入れたからこそ、獲得した他者性でフォスは真実追求の道を歩み出したのである。

さて、ここまで散々遠回りして迂回しながら考えてきたことをビシッとまとめようと思う。本稿で考えたいこと、それはとてもシンプルで、私たちが本当に本当のことが知りたいと思うようになるにはどうすれば良いかということである。我が国を覆う数多くの危機を目の前にして、見て見ぬフリをしてそれぞれがそれぞれの優しい世界に閉じこもる、そんな現状をどうにか打開するヒントを本作に見出したからである。そして、それは即ちフォスと宝石たちの違いを考えることだと思った。宝石たちは私たちそのものだとはくり返し述べてきたし、フォスはそこから抜け出していった存在だということも述べてきた。であるならば、私たちもこの国を覆う認知的不協和(暗黙了解)から抜け出せる方法を、フォスから学び取ることが出来るのではないか、もっと言えば本作自体がそういう思考実験を内包した文学なのではないかということである。

そして、ここにやっと結論として、その本質的な問題点と活路を文字にしていきたい。

私たちは、死に至れない病に侵されている。

この一言が現代日本の抱える問題のすべてである。これはもちろんキルケゴールの『死に至る病を捩ったものである。では、ここからは本作を本書と関連付けて考える理由を説明していこう。まずは本書の内容について、その冒頭部分を主として『宝石の国』との関連性とともに解説したい。本稿では「自己存在の問い返し」という表現を用いてきたが、キルケゴールは自己について次のように定義する。少々長いが結論の核となる重要な議論なのでお付き合いいただきたい。

「人間とは精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係するところの関係である、すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものになることが含まれている、―それで自己とは単なる関係ではなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである。」

「人間は有限性と無限性との、時間的なるものと永遠的なるものとの、自由と必然との、綜合である。要するに人間とは綜合である。綜合とは二つのものの間の関係である。しかしこう考えただけでは、人間はいまだなんらの自己でもない。」

「二つのものの間の関係においては関係それ自体は否定的統一としての第三者である。それら二つのものは関係に対して関係するのであり、それも関係のなかで関係に対して関係するのである。たとえば、人間が霊なりとせられる場合、霊と肉との関係はそのような関係である。これに反して関係がそれ自体に対して関係するということになれば、この関係こそは積極的な第三者なのであり、そしてこれが自己なのである。」

「自己自身に関係するところのそのような関係、すなわち自己、は自分で措定したものであるか、それとも他者によって措定されたものであるかいずれかでなければならない。さて自己自身に関係するところの関係が他者によって措定されたものである場合、むろんその関係が第三者なのではあるが、しかしその関係すなわち第三者はさらにまたその全関係を措定したところのものに関係するところの関係でもある。」

難解すぎる…ので分かりやすく言い直すと、人間は(=)精神であり(=)自己である。そして、自己は有限性無限性時間的なるもの永遠的なるもの自由必然といった関係に対して、積極的(能動的)に関わっていき、これらの関係を綜合していく存在である。つまり、関係(AとB)に対して関係する(=両者の均衡を取ろうとする)ことで自己となる。この綜合こそが自己なのである。

例えば、有限性と無限性の関係では、現実と理想のバランスを取ろうとすること。時間的なるものと永遠的なるものの関係では、肉体と魂の折り合いをつけること。自由と必然では、必然性の中で可能性を考えること。などとかみ砕いても良いかもしれない。しかし、これだけではまだ自己とは言えないキルケゴールは考える。その足りないものとは「三者」である。

キルケゴール二つの第三者について言及している。否定的統一としての第三者と、積極的な第三者である。第三者とは、関係(AとB)によって形作られる「もの」(C)だ。否定的統一とは、霊(魂)と肉体という関係の綜合が人間であることと言えば分かりやすいかもしれない。…魂と肉体の関係(AとB)が綜合した人間(C)が第三者である。そして『宝石の国』における「にんげん」は魂・肉・骨が自立している。魂と肉体(と骨)が総合された人間は否定的統一であり、自立している魂・肉・骨の総称としての「にんげん」は否定的統一ではない。つまり、キルケゴールがわざわざ否定的統一を持ち出してきたのは、関係(AとB)の綜合はA―Bという単なる関係ではなく、Cという第三者であるべきだということである。…と、それでも否定的統一はただの表象である。それは外的な表れでしかない。魂と肉体との綜合による「心の活動」こそが人間である。しかし、キルケゴールはさらに積極的な第三者を要求する。つまり、魂と肉体の綜合(否定的統一)がさらに関係してもたらされる「精神活動」が人間ということである。

さてここまで述べてしまえば、あとはサクッと処理しよう。自己には自分で措定したもの他者が措定したものの二つがあるらしい。ここでは分かりやすく、関係(AとB)の均衡を保つ(綜合する)ための関係を自分自身が用意するか、他者が用意するかという認識で構わない。そして、キルケゴールは、関係は他者との関係でしか均衡が保たれないと考える。この他者とはのことである。つまり、魂と肉体の綜合としての人間(心)では不十分であり、魂と肉体の関係が他者(神)と関係して形作られる精神こそが自己なのである。

以上が引用部分の解釈である。要はキルケゴールキリスト教(神)を信仰せよと結論付けるわけだが、もちろんそんなに単純な話でもないだろう。神とは、さまざまな関係のバランサーである。つまり、彼らと「文化」が違う私たちはその代替物としての他者を探せば良い。

以上が『宝石の国』を語るうえで「他者性」というキーワードを出した理由であり、人間は「総合人」であるべきだと述べてきた理由である。キルケゴールが考える関係(AとB)は両者への肯定を前提とする。その均衡を取ることが大事なのである。初めから片方を否定している宝石という存在は、そもそも総合人たり得ない。

宝石たちの「死に至らない身体」は時間的なるものを否定し、認知的不協和による思考停止は無限性を否定し、整形された一様さは可能性(自由)を否定するものである。宝石たちの初期装備はそんな感じだ。それに反してフォスは他者的なるものとの関係のなかで、キルケゴールの考える他者の代替物を得ていった。

また、キルケゴールの考える他者、つまり神という存在は「始まりと終わり」の関係の綜合と捉えることが出来るのではないかと思う。始まりとは起源であり、「自分とは何者なのか」を考えることである。終わりとは死であり、「自分はどうあるべきか」を考えることだ。そして、結局は「本当のこと」とは元を辿ればこの二つの問いに集約されるのではないかと思う。…そして、神という存在が考えだされたのは、人間が自己であるための他者(関係)を得るためだったのではないだろうか。

フォスは他者性の獲得によって成長してきた。逆に宝石たちは他者性の欠損によって停滞している。そして、究極の他者性と言えるものが「神」である。神とは始まりと終わり、生と死(生と滅)の関係の綜合である。そして、生と死は同じことである。しかし、生は表象している外的なものである。その生を浮き彫りにするのはやはり「死」であろう。そういう意味において、神という他者は多分にのことだ。つまり、死こそが究極の他者であると言っても差し支えはないだろう。では、本作において死について語られている箇所を三つほど引用したい。

「(宝石たちの死は)仮死に過ぎない。他の生物にはないすばらしい特性です。しかし、この性質のせいで私たちは何事も諦められないのですけど…」

「僕ら存外にぶいからなぁ。夏が暑いとか冬が寒いとか植物ほど敏感じゃないし、危険にも虫のようになれない。やっぱり不死のせいかしら」

「死は何もかも台無しにする代わりに生を価値あるものにする」

死なない(終わりがない)ことで、宝石たちの生は希薄なものとなっている。キルケゴールも言うように、自己は時間的なるものと永遠的なるものの均衡を取らなければならない。彼らの世界ではそもそも時間的なるもの(肉体)と永遠的なるもの(魂)が分離しているとも言えるが、宝石たちにおいて生と死の均衡は崩壊している。宝石たちは不老不死であり、極端に永遠的である。すると自己=精神は生まれず、浅い絶望のループを繰り返すだけになる。

それが現在をより良く生きようという情動を失わせる。どれだけ砕けても元に戻るので、宝石たちは気温や危険についてとても鈍い。それと同じように無限の寿命は、時間についての感性を鈍くさせる。仲間が連れ去られようが、時間は尽きることはないし、身体的にも死ぬことはない。永遠は彼らの生を希釈し、または彼らを諦められなくし、より良く生きること=本当のことが知りたいと欲すこと、そのために生をアップデートしていくことを躊躇させる。

数千年、数万年生きるのなら、生きねばならないなら、金剛先生との優しい世界を壊す勇気は出ないし、連れ去られた仲間の寿命も尽きないのだから奪還作戦に緊急性はない。永遠はそうして生の価値を奪うのである。そして、残された道は「逃避」しかなくなる。

フォスはいくつかの他者性を獲得したことで、死という他者の代替的なるもの(己のなかの神=精神)を手に入れていったのではないか。他者的なるものとの出会いと問答をくり返し、自らの中に死に代わる他者性を積み重ね、本当の生を獲得する途上に居る、それがフォスという存在なのではないかと考える。永遠の命はもはや「生」ではないし、金剛先生との優しい世界は偽物である可能性がある。フォスはそのような欺瞞を終わらせる覚悟が出来ている。私たちにもフォスのような「精神」が必要ではないだろうか。この世界に欺瞞はないか、私たちはちゃんと生きているか。問い返しを始めなければならない。精神という内なる神、内なる他者との対話を始めよう。

最後に、私たち日本人にある種の真剣さがないのは、死ぬことがないと思い込んでいるからだ。そう思えてならない。文芸批評家の浜崎洋介は日本人が社会に溢れている理不尽について何も考えようとしないことに対して、他者意識の欠損が原因ではないかと語っている。そして、他者意識はどこで育つのか。他者とはコントロール出来ない何かであるので、最大の他者は死である。なので死とどう向き合ってきたか、それこそが肝要ではないかと説く。かつての日本には武士道を含めてそういう前提がしっかりと存在していた。

しかし、文明の発達によって死はまた著しく遠い存在になっているし、現代社会は世界戦争なんてもう起きないと高を括っている。また、生の価値を生に求めるようになった。生き延びることだけが価値となっていき、ちょうど新自由主義の暗雲が我が国を覆うころにはサヴァイヴ系というジャンルがサブカルチャーを席巻していった。『バトルロワイヤル』に代表されるサヴァイヴ系は、何やら生存をかけたゲームに巻き込まれており、生き延びることが最優先となる想像力である。新自由主義により競争が激化して格差は拡大し、デフレ不況は終わりが見えない。そんな中で文明の利器と生きやすい時代や戦争のない世界(もちろん認知的不協和)といった甘い水で飼われ、あるいは勤労統計の不正や、景気動向指数の恣意的運用などのあらゆる手段で危機が隠匿されている。これによって、生き延びることが最優先だが、死ぬことはないというムードが社会に蔓延するようになっている。明らかに矛盾しているがそこはご愛敬、ちょっとした認知的な不協和である!その結果、人々はやがてやってくる死に想いを馳せることもないし、寿命以外で死ぬことなど想像もしないし、ましてや国家が死ぬ(滅びる)などあり得ないと思っているのだ。

しかし、現実には人間はもちろん死ぬし、世界戦争は形を変えて息をひそめている。いや戦争なんて起こらなくても国は滅びるのだ。現に我が国はまるで戦争があったかのように世代人口が減少している。見えない戦争は見えない敵と既にもう始まっているのである。あるいは戦争はいまだ終わっていないのである。

「昔は滅ぼすか滅ぼされるかの大変な時代だったね」と現代人は他人事のように話すけれど、本当にそうなのか。国が死なないというのは多分だけど幻想だ。歴史は国が滅ぶことの繰り返しだったし、終わりがあるから(想像できるから)こそ出来るだけ長く良き時代が続くように国づくりに励むのだそれが近代(現代)という時代において、国が亡ぶ時代はもう終わりだと言わんばかりの現代人がそこに居る。そういう空気のなかで、真剣に終わりに想いを馳せる人はどれだけいるだろうか。人は死ぬし、国家は滅ぶ。たとえ寿命が来なくとも、たとえ戦争が起きなくても。それなのに…。

 

あぁ私たちは宝石たちとまったく同じだ。死に至れない病に侵されている。これは憂うべきことである。

 

 

過剰摂取には注意を―補論―

過剰摂取には注意を払わなければならない。フォスは両足に続き、両腕、さらに…と幾度も欠損と紛失をくり返し、その度に異物を取り込んできた。足はアゲートであり、腕は白金だ。他にも…。規則的配列の身体に異物(複雑性)を取り込むことによって、フォスは「本当のことが知りたい」と思うに至ったことは既に述べた。これは素晴らしいことである。彼の本当のことを知るための勇気と行動に心から賛辞を送りたい。しかし、原作最新刊あたりになると雲行きが怪しくなってくる。詳細は次の機会とさせていただくが、フォスの行動が急進的になり過ぎている印象を受ける。それはフォスの身体に占める異物の割合がとうとうフォスフォフィライトの割合を超えてしまったことが影響しているように思う。フォスフォフィライト部分に記憶が蓄積されており、それを失うとその分記憶が無くなるという事もあるし、異物を取り入れていくごとに向上する力への驕りもあるだろう。そんなあまりにも急進的なフォスの存在が宝石たちを変えつつある。ただ、暗黙了解を守り、優しい世界を維持することしか考えていなかった宝石たちが、フォスとともに月を目指すか、依然この世界の維持に努めるかという二派に分かれるのである。しかし、金剛先生のもとに残った宝石たちもこれまでの様子とは少し違う。「本当のこと」を直視し思考した結果、決断したのである。それはもはや守旧派から保守派への転身だ。急進的なフォスに対して、保守的な宝石たちが現れてきた。彼らはフォスという他者との関係のなかで自ら考えて態度を決しており「真剣」である。この先の展開を見守りたい。

 フォスが手に入れた他者はやはり偽りの他者でしかなかった。フォスの中で均衡が崩れつつあるのかもしれない。死を取り戻す、ひいては生を取り戻すことこそがフォスにとって、私たちにとって、活路となるのではないだろうか。「死に至る病」結構だ。死ねるだけそっちの方がまだ良いじゃないか。

生き様と継承の物語 『El Japón(エルハポン) ーイスパニアのサムライー』論

『El Japón(エルハポン ) ーイスパニアのサムライー』を観劇してきたのでご紹介します。

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(初日舞台映像)

スペイン南部の町コリア・デル・リオに「サムライの末裔」を自認する「ハポン(日本)」姓の人々がいる。なぜ遠い異国の地に日本の侍の伝説が残ったのか……。慶長遣欧使節団として派遣された仙台藩士を主人公に、その侍らしい心情や異文化との出会いを色濃く描きあげる、ヒロイックで快活な娯楽作品。
慶長18年、仙台藩が派遣した慶長遣欧使節団の中に、夢想願流剣術の名手・蒲田治道の姿があった。約一年の航海を経て使節団は目的地のスペイン(イスパニア)に到着するが、国王フェリペ3世との交渉が膠着し、港町セビリアの郊外にあるコリア・デル・リオで無為な日々を過ごすこととなる。ある時、奴隷として農場に売られ脱走した日本人少女を助け出した治道は、匿う場所を探して宿屋を営む女性カタリナと知り合う。近隣の大農場主から邪な欲望を抱かれながら、どんな脅しにも屈しないカタリナの凜とした姿に、治道はかつて心惹かれた女性の面影を見出していく。やがて任務を果たした使節団は帰国することとなるが、出航の迫る中、治道のもとにカタリナが攫われたとの報せが入り……。(公式サイト:https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2019/eljapon/index.html) 

 

 

はじめに

 

今回は、宝塚宙組公演『El Japón(エル ハポン) -イスパニアのサムライ-』(以下、エルハポン )についてご紹介します。第1回目で『神々の土地』をご紹介して以来の宝塚ですね。別に宙組推しという訳ではないのですが、何周か回って宙組で被りました。追々、過去作などもご紹介したいとも思いますが、今回はコレです。

僕の観測範囲では、評判はあまり芳しくはない?というように感じます。かといって、宝塚は何がウケて、何がウケないのかいまいちよく分からないところがあります。例えば『エリザベート』なんかは「死の擬人化」によって実存を志向する作品ですが、その哲学的意図に共感しているヅカファンはどれほどいるでしょうか。そう考えると『エリザベート』がここまで熱烈な支持を勝ち得ている要因は何なんだろうか。と、しばしば考えることがあります。

つまり、宝塚では一概に「大衆娯楽」がウケるとは限らないのです。時に強烈な「芸術作品」がファンを沸かせることがあります。そして、そこが宝塚歌劇の魅力のひとつでもあると思っています。

では本作、エルハポンはどうでしょうか。本作は「大衆娯楽」的な作品です。しかも、よく考えられた作品だと感じました。これがウケないとなると何がウケるのか、もしかすると僕の観測範囲が極端なサンプルを採集してしまっただけかもしれませんが。


前置きが長くなりました。以下、感想です。ネタバレ含みます。

 

 

テーマ、メインストーリー、サブストーリー


本作の表面上のテーマは「ハポンの謎」ですよね。冒頭で謎が提起されて、ラストシーンで謎が解ける。何故、スペインにハポン姓の人々(侍の末裔)がいるのか。その謎を一本の軸にしながら、メインストーリーとサブストーリーが展開されていきます。

メインストーリーは当然、治道とカタリナの恋です。主人公・蒲田治道と、ヒロイン・カタリナの恋。そして、カタリナへの想いと共に剣を握る理由=人を生かす剣の実践(と回復)を描いていきます。

治道は、かつての想いびとである藤乃を失った悲しみから、または主君・伊達政宗を暗殺しようとした藤九郎を斬ることが出来なかったケジメとして、剣を置きます。(藤九郎は伊達政宗を仇として暗殺未遂に及びます)

藤乃と藤九郎は姉弟でしたかね?観劇から少し経っていて、記憶が朧げですが、とりあえず同じ「家」の者です。その「家」にかつて仕えていた治道でしたが、天下統一の完成を目前に戦に敗北し、その戦火で藤乃も死んでしまいます。治道はこの戦に参加できず、藤乃を助けることが出来なかったということで、大変後悔しているというところです。

また、藤九郎は、治道が戦に参加出来なかった理由を知らないので、「この裏切り者め!」という感じで治道を見ています。しかし、かつては夢想願流剣術の師匠と弟子という関係でした。というのがプロローグですね。

ここから、治道は主君(伊達政宗)に仇なした藤九郎を斬ることが出来ず、その助命嘆願までしたということで、(伊達政宗公の温情?もあって)藤九郎共々、スペインに通商交渉のため出航しようとしていた遣欧使節団に随伴せよ!という命がくだります。

※あ、今更ですが、本作についてネタバレはしません(すると言いましたが、あれは嘘です!)。ここでお伝えするのは本筋を外した粗筋だとお考えください(それをネタバレという人も居るので注意書きしました)。こんくらい言うてもかまへんやろという範囲でやっていきます。


そして、サブストーリーは治道と藤九郎の和解です。まぁ他にも色々とありますが、最も重要なサブストーリーはこれです。藤九郎への剣を握る理由の継承を描くことで、本作のテーマへと接続していく。それが重要なのです。

そう、本作は治道と藤九郎、この二人こそが、現在コリア・デル・リオで暮らすハポン姓の人たちの最初の二人なのだということを継承というキーワードでもって描いているのです。

え、ネタバレ?いや分かるでしょ!何故、ハポンがスペインで云々というテーマで、主人公周りの人たちがそうでした!となるのは自明です。これはネタバレではありませんよ!(弁明)

さて、本作はメインストーリーとサブストーリーが密接に絡み合ってひとつの大きな物語(テーマ)を浮かび上がらせていく。とてもシンプルですが、テーマの一貫性と伏線の回収(謎解き)が気持ちのいい作品でした。

というのが、ざっくりとした作品紹介と、感想でございます。

 


本当のテーマ


ハポンの謎」が嘘のテーマとは申しません。しかし、本作はミステリーでも、謎解きの快感を与えることを目的にした物語でもありません。とても宝塚的な恋の物語であり、友情の物語であり、継承の物語であり、男気の物語です。

ここで少し余談ですが、「宝塚的」というときに、他は分かるけど「継承の物語」って何よ?と思うかもしれません。ですが、そんなに難しいことではありません。だって、宝塚は役者に「学年」があり、音楽学校の延長線上で関係性が持続します。そして、やがて卒業していきます。この構造的特徴がより次世代、下級生への継承という点を強調します。上級生から下級生への指導、新人公演では上級生の役を下級生が演じます。また、宝塚ではトップスター制度(トップスターと相手役、番手)を作劇に組み込まなければならない制約があります。外部作品よりも色濃く役者のポジションや立ち位置、学年などが脚本に影響を与えます。つまり、例えばサヨナラ公演などでは、トップスターから次期トップスターへの継承が、作劇上のモチーフとして必ずと言って良いほど描かれます。というように作劇と作劇外が微妙に混ざり合っているという特徴があります。

よって、宝塚歌劇の最も重要な物語的な核は男気継承だと思っています。男気とは“生き様”です。つまり、宝塚とは男の生き様(より良い生)を継承せんという物語を100年以上の昔から描き続けてきた劇団だということができます。

※ジャンプの「友情・努力・勝利」風に言えば、どうですかね。あれは編集長談によると「努力」は建て前らしく、「健康」が取って代わるのではないかということらしいのですが。なので実質4つということで考えると「美しい恋・男気の生き様・物語の継承」を三本柱に「時々、友情」ということでどうでしょう!共感いただけた方は是非とも流行らせてください。

だからカッコイイんです!彼らビジュアルや、立ち居振る舞いだけじゃないんですよ。舞台上で表現される生き様がこの上なくカッコイイんです。

蛇足が続きますが、僕が宝塚を好きなのはきっとそういうところに抑えがたい魅力を感じているからなのだと思います。物語はその消費者(読者、視聴者)に「生き方」を教えてくれるものです。究極的にはそこに帰結するはずです。何故生きるのか、どのように生きるのか。それを時に生が最も輝いている瞬間を切り取ることで、はたまた全てをひっくるめた一生を描くことで、私たちはそれを疑似体験し、消化し、昇華し、哲学し、時には数学していくのです。


さて、かなり脱線しましたので、話を軌道に戻しますと、本作はそんな男気(生き様)と継承がしっかりと描かれている物語ですよね、ということが言えると思います。

つまり、本当のテーマは剣を握る理由です。そして、剣を握る理由とは、生きる理由のことです。生きる理由とは…つまり生き様のことですよね。いちいち言い換える必要はないですけど。

本作は夢想願流剣術(実在するみたいですね。本公演の殺陣がめちゃくちゃだと詳しい友人が言っていましたが、もしかするとこの流派特有の何かがあるのかもしれません)の会得者・治道が、人を生かす剣という、まぁその名の通り夢想的なことをおっしゃるんですよね。9条バリア!と言うが如く、お花畑なんですが、しかしそれで何が悪いのか。その生き様を貫けるなら、そしてちゃんと責任を負うのであれば結構じゃないか。かつて墨子(墨翟)という中国の思想家がいましたが、彼は友愛を唱え、戦争に反対していました。まぁ戦国時代に大層なお花畑ですが、しかし彼は戦争を仕掛ける国から戦争を仕掛けられた国を無償で守り切る籠城のスペシャリストであり、実践家であったのです。夢想は実践を通して無双になります(上手いこと言うたった!)。また脱線ですね。話を戻しましょう。

治道は、過去に藤乃を守れなかったということで剣を握る理由=生きる理由を失ってしまいます。藤九郎もまた復讐に囚われることによって、剣の道=生きる目的を見失っています。カタリナもずっと喪服を着続けているので、生きる意味を見失っていると言えますよね。アレハンドロもまた生き方を探している人だと言えます。つまり、貴族の枠に収まってお利口に生きていくのは嫌だと生き方を模索していますよね(だから、生きる理由を見つけようともがいていく治道と友情を育むのでしょう)。

つまり、何度も言いますが、この物語は彼らが剣を握る理由を見つける物語です。メインの登場人物は「生きる理由」を見失っている(もしくは探しあぐねている)という点でみんな一致しています。エリアスや、奴隷の日本人少女たちもそうだと言えます。エリアスもアレハンドロと同様に貴族特有の息苦しさを感じていますし、もちろん奴隷は生き様を発揮できません。

治道が再び剣を握る理由(生き様)を見つけ、藤九郎が剣を握り直し、カタリナが剣を握る決心をし、日本人女性の奴隷たちさえも剣を握っていく。そして「自由」を迫害する「権力」に戦いを挑んでいく。

この物語は彼ら登場人物が「剣を握る理由」を見つけた時に実質終わりです。

当然、彼らはその結果を引き受けるところまでに責任を持たなければいけません。しかし、カタリナが喪服を脱いで剣を握り、奴隷たちが戦う決心をして剣を握り、治道と藤九郎が故郷を捨ててまで舞い戻って剣を握った時点で、もう終わりなんです。剣を握ることには、それ自体で必然的に結果を引き受けさせられるからです。

だから、剣を握った時点で、物語上やりたいことは全部やったということになるんです。もうやりたいことはやりきったので、最後はアレハンドロがまくし立てるように締めくくります。ラストが雑だったという感想も多く聞かれましたが、僕はそうは思いません。解決編はあのくらいご都合主義コメディで良いんですよね。オマケだからパパッと終わらせましょうということで。だって、何故「ハポンが生まれたのか」の物語なので。剣を握る理由を見つけた治道と藤九郎、あるいはその周りの人たちこそがそのルーツなのだ!が本作の結末です。

この物語はどういう物語なのか。何をテーマにしているのか。で当然どこに力点を置くかが変わってきます。そういう意味で本作はちょうど良い塩梅だったんじゃないかと思います。

 

何が彼らに剣を握らせたのか。それはぜひ劇場で確かめてみて欲しいと思います(もしくは円盤を買いましょう!あるいはスカイステージに…)。

治道、藤九郎、カタリナ、奴隷の日本人少女たち。それぞれ理由は異なります。しかし、ほとんど同じですよね。彼らは「生き様」を見つけたのです。

 

 

さいごに


こう見ると、ストーリーラインは一本軸でブレも無く、サブストーリーもしっかりと中心テーマへと収束していく。この構造そのものが、カタルシスになるので、この作品はわりと好きな作品のひとつになりました。要素要素は誰でも思いつきそうなことの寄せ集めですが、それがよくひとつにまとまっているという印象です。

ただ、残念な点もいくつかありました。大野先生は恐らく詰め込み癖があるんじゃなかろうか。というのは前作の信長から感じていたことでもあります。コンセプト(ハポンの謎解き)とテーマ(剣を握る理由、生き様)はシンプルで分かりやすいですが、登場人物に愛着を持ち過ぎているのか、余計なキャラクターが多い。

特にヒロイン、準ヒロインに当たるキャラクターが三人も居ます。また、カタリナに恋をする理由と、藤乃を割り切る理由などがもう少し欲しかったなと思います。治道もまた喪服を脱げなかった人のはずですし、「どんな脅しにも屈しないカタリナの凜とした姿に、治道はかつて心惹かれた女性の面影を見出していく」という部分が具体的に伝わってこなかった気がします。

では、どうすれば良かったのか。なんてプロの脚本に手を付けようなんて無粋な真似はしませんが、少しだけ。やはり藤乃とカタリナはもっと関連付けて描いた方が良かったと思います。藤乃とカタリナの共通点、カタリナにかつての想いびとの面影を感じさせる要素が欲しかった。そうすることでカタリナに恋をする理由に説得力を持たせられるし、剣を握る理由にダイレクトに繋がっていけると思うのです。

また、余計なキャラクターが多い割に、それぞれの設定が薄いとも言えます。メインキャラクターは良いけれど、例えば奴隷の日本人少女たちにはそれぞれ方言を割り当てられています。それをするならもうひと押し、宿泊所の手伝いを始める場面でも、私は料理!私は掃除!とかにするだけで、脇は脇でもそれぞれに深みを持たせるのに一役買えたのではないでしょうか。出自も武士の出、農民の出、商人の出、とかひと言でも自己紹介させたりすると、出身地の違い(方言の設定)と相乗効果でキャラの肉付けが出来たと思います。彼女たちも剣を握る理由(生きる目的)を得ていって、やがて剣を握るんだから。彼女たちも主人公らに影響を受けながら「ただ生き延びること」から「生き様を見つけること」へと変わっていくんだから。

というのは個人的な感想です。素晴らしい作品だったので、いちゃもんはこのくらいにしておきます。あとは疑問点なのですが…

ラストシーンはどうなんでしょう。いくら本筋ではないとは言え、明らかに治道しか解決してへんやんけ!と思ってしまいました(在留資格的な問題)。藤九郎や奴隷女性たちのその後も回収して欲しかった。普通に考えれば改宗すれば良いと思われる(治道にも同じことが言えるが、それはアレハンドロのお茶目な策謀ということで)。一回しか観てないので見落としている、誤解しているかもしれませんが。

 

ということで、今回はこれくらいで。真風さんとキキのコンビは良いですね。元星組コンビということで、宙組に新しい風を吹き込んでいる気がします。

実存の在処を探る 『やっぱり契約破棄していいですか!?』論

『やっぱり契約破棄していいですか!?』(原題:DEAD IN A WEEK: OR YOUR MONEY BACK)を鑑賞して来たのでご紹介します。f:id:nishiken0192:20190925140834p:plain

(公式サイト:http://yappari-movie.jp/)

 

(予告PV)

 

 

執筆者:にしけん(豊西旅路)がお送りする連載記事、題して「物語の話をしようじゃないか!」(暫定)では、 

神々の土地ーロマノフたちの黄昏ー』(宝塚歌劇 / 作演出・上田久美子)

スロウスタート』(テレビアニメ / 原作・篤見唯子)

に続いて、3作目『やっぱり契約破棄していいですか!?』(イギリス映画 / 監督・トム=エドモンズ)をご紹介します。

 

あらすじ

小説家志望の青年ウィリアムは、真っ暗な橋の上で人生に別れを告げ、落ちる覚悟を決めた。その瞬間、年老いた男が声をかけ、自分が必要になった時連絡するようにと名刺を差し出した。ウィリアムは仕方なく受け取るが、その助けは要らないとばかりに橋から落ちていく。真っ逆さまに、橋の下を通過する観光船の上に……。一方レスリーは、英国暗殺者組合の会員として誇らしいキャリアを持っているが、今や暗殺件数のノルマを達成できずクビ寸前。自殺スポットに出向いては自殺志願者と契約し、引退を先延ばしにする日々を送っている。翌日、運悪く生き延びてしまい絶望するウィリアムは、橋の上で受け取った名刺を思い出す。7回目(中止を含めると10回目)の自殺未遂を経て、ついにプロの手を借りることを決心し名刺に書かれた番号へ電話した。とあるカフェで待ち合わせたウィリアムとレスリーレスリーが持っていたパンフレットには「あなたの死―あなたのやり方で」と書かれている。
その契約内容とは、「ターゲットを一週間以内に殺すことができなければ返金する」というものだ。ウィリアムは自らをターゲットに設定し、契約書にサインする。契約成立後、ウィリアムは出版社のエリーから電話を受ける。なんと、自分の書いた小説を出版したいというのだ。ウィリアムとエリーは出版に向けて話し合うなか、急速に惹かれあう。ウィリアムに生きる希望が湧いてくるが、そんな希望は銃声によって打ち砕かれてしまう。しかし、レスリーの腕は全盛期とは違って鈍っていたのだ。その隙にウィリアムとエリーは生きるために逃亡する!一方レスリーは、年間ノルマを達成し引退を食い止めようと二人を必死に追いかける。自分には今でも才能があることを証明しなくてはならないのだ!「やっぱり契約破棄していいですか!?」―そんな言葉は許されるわけがなく、ウィリアムとレスリーの人生を懸けた一週間の幕が上がる!果たして、最後に笑うのはどっちだ!? (公式サイトより)

 

まずはタイトルについて。いや、ダサくないですか。と思ったんですが、よくよく考えてみると原題も『Dead in A Week(一週間以内の死):Or Your Money Back(さもなくば返金)』なので、どっちもどっちだな

 

要するに、自殺願望を持つ小説家の主人公ウィリアムが、クビ寸前の老いぼれ暗殺者であるもう一人の主人公レスリー自分殺しを依頼し、「ターゲットを一週間以内に殺すことができなければ返金する」という契約を結んだまでは良かったが、やっぱり死ぬのをやめたくなり、この契約破棄していいですか!?って聞いてみたら、問答無用ぉー!となって、契約期間である1週間のドタバタ逃亡劇が始まるというような内容です。死にたい小説家と、殺したい暗殺者、コメディタッチで描かれるちょっぴり黒い映画ですね。巻き添えで関係ない人が結構死ぬので(しかもシナリオ上回収されないので)、そういうのが苦手な人は結構いるかもしれませんね。イギリスのブラックユーモアは人を選びます。

 

タイトルの件に戻りますと…一応、コメディ作品なのでこのくらい軽いノリでも良いかなとも思いましたが、作品の深度を考えると、それは少し惜しい!とも思うのです。もう少しターゲットにすべき層が違うのではないかということですね。じゃあ、どんなタイトルなら良かったのか。いっそのこと『完璧なる実存死』でも良かったのではと思いますが、商業映画の宿命として興行の問題がありますので『ピアノが落ちるその前に』くらいでどうでしょうか。

未見の方はピアノが?落ちる?どゆこと?と疑問に感じるでしょうが。それは一先ず置いといて、本作はそういう話なのです。まぁ想像してみてください。上からピアノが落ちてきたらどうなりますか?死にますよね、確実に。でも、ピアノが落ちてくるなんて突拍子もないことを予想できるはずもない。そう、死はいつ訪れるか分からないものです。当たり前ではありますが。あなたは天寿を全うできるかもしれないが、1秒後に突然死するかもしれない。死はコントロールできない恐怖です。しかし、ただひとつだけ死をコントロールする方法があるとすれば、それは自殺なのです。

 

つまり、本作は「死」をテーマにした作品です。そして、主人公は完璧なる実存「死」を実践しようとします。しかし、ここで重要なのは、主人公にとって「死」はより良き生を完成させるものであることです(より良く生きようとはしていませんが)。だから「死ぬ前」にものすごく執着します。「死ぬ前にやり残したこと」彼は何度そう言うでしょうか。結構言うんです。

それは絶望に苛まれ、7回(未遂含め10回)も自殺を試みた人物の考えることでしょうか。

 

まとめると、「死」はいつ訪れるか分からない。だから、その前に「生」を価値付けておかなければならない。それが幼少期主人公の心理であり(後述)、成長した主人公に自殺を選択させていった背景の思想です。そのことを表現して『ピアノが落ちる(=ある日突然死んでしまう)その前に』というタイトルが良いと、僕は言ったのです。(どや顔)

 

論考

論考…というほど大したものじゃありません。ただ、感想というには自己解釈を入れすぎだし、考察というには少し感じが違うと思ったのです。だから、今後もこの見出しで記事を書いていくと思います。

 

さて、あらすじや前提はもう充分語りましたので、ここからはがっつり本題に入っていこうと思います。なのでネタバレします。…ネタバレされても面白い映画は面白いよ?だって良い映画は文脈を楽しめるものだから!とは言ってもネタを明かされるのは嫌だという人はいるでしょう。

 

この連載記事は、すでに鑑賞した方には新しい視点を提供したいと意図されているものであり、未見の方には「見て見て見て見て見て見て見て!」という猛烈なアピールでもあるので、良いでしょう!配慮します。本作においては、本当にネタバレされたら少し興ざめ?という部分は、結末部分だろうと思いますので()、そこに入る前には注意喚起します!それ以外はネタバレ含みつつ進めていくことをご了承ください。(※ところどころ事前喚起しますが、自己責任で!)

 

前置きが長くなりました。以下、始めます。

 

 

ウィリアムは本当に死を望んだか

いきなり作品の根幹を揺るがす問いから始めようと思います。僕は自殺願望のある主人公ウィリアムの自殺願望に疑義を呈します。彼は7回(未遂含め10回)も自殺を試みているじゃないかという声が聞こえてきそうですが、むしろそこですよね。

 

本作はウィリアムが橋から身を投げようとするショットから始まります。そこでもう一人の主人公、暗殺者レスリーと出会うのです。レスリーは英国暗殺者組合(笑)に加入しており、一か月の売り上げノルマ(笑)を達成するために、まさに自殺しようとしている者に営業(笑)をかけて、やりくりしているクビ寸前の老いぼれ暗殺者です。あぁなんて香ばしいブラックコメディなんでしょう。あまりのイギリスらしさに思わず微笑んでしまいます。暗殺者組合?なにそれ!なにそれ!ノルマ!?ノルマがあるの?営業?自殺幇助は暗殺のノルマとして有りなの?と、ものすごくシュールな世界観で楽しいです。

 

と、それは良いとして…。レスリーは暗殺(暗殺とは?)が必要ならいつでもご連絡をと名刺を渡して去っていきます。…暗殺者がビジネスカードなんて渡しても大丈夫なのか?足が付かない?

 

しかし、ウィリアムはそのまま身投げを実行します。が、運悪くあるいは運良く、そこに船が通りかかり、その船の上に落下します。でも、僕はあとあとこの一連のシーンを振り返って、次のように思いました。

 

船が見えてから飛び降りたのでは?

 

と。正確には「船が見えたから」ですね。つまり、彼は自殺願望を気取っているけど(いえその真剣さは疑いませんが)、無意識的に生を選択しているということです。それは何故でしょうか。僕は未練があるからだと思います。「不死身なんじゃないか」そう皮肉交じりに自己分析していたウィリアムですが、不死身の要因は彼自身の無意識的な未練にあって、それは運命でも運勢でもなんでもなく彼の選択そのものだったのです。だから、ヒロインとの出会いや対話によって自殺をやめて生きようと思った、この展開をそのまま理解するのは少し違うと思うのです。この物語におけるヒロインの役割はむしろその真逆です。ま、それは追々。

 

ウィリアムはそもそも本当には死を望んではいなかった。その証拠としてあるシーンを挙げておきましょう。ウィリアムは喫煙者でした。煙草を吸うシーンは何回か出てきます。いつだったか、ウィリアムはふと煙草のパッケージに目を落としました。そこには「喫煙は死を招く」というようなことが書かれていました。ウィリアムはそれを見て煙草をそっと戻します。…え、戻すの?と思いませんでしたか。僕は思いました。もしかして本当は死にたくないんじゃないか。僕はこのシーンを見たときそう感じました。結果としては、半分そうで半分そうじゃなかったんですが。ま、これも追々。

 

ここで彼の自殺理由について触れておく必要があるでしょう。

彼は小説家でした。そして、表面上の自殺動機は(私たち視聴者から見て)「小説が売れないから」とされ、本人の口からは良く分からない哲学的動機がつらつらと語られますが、本当に何を言っているのか良く分からない。まじで。

 

そして、本作は結局、彼に明確な自殺動機を与えないまま幕を閉じます。ツイッターの感想をぼちぼち見ていますと、この点に不平不満を抱いている方が多い印象を受けました。「結局何で自殺したかったん?」ということですね。

 

ただ、それに対しては、本作が長編映画の初挑戦となるトム・エドモンズ監督が明快な答えを用意してくれています。

ウィリアムが死にたい理由を一つだけに絞りたくなかった。それでは単純すぎるし、苦しむ人を助けるサマリア人協会にも相談し、自殺の理由が一つだけというのは正確ではないことが分かったから。ウィリアムには疎外感があり、はっきりした目的も欠如している。でも、スクリーン上で描くとすると、彼に方向性を与えなくてはならない。でも、こういったことは現代社会ではある意味一般的な感情ではないかと思います。だからこそ真実味がある。(公式サイトより)

ごもっとも。僕はそう思いました。人間の感情というのはそう単純なものではありません。明確なコレというものが最終的に引き金を引くことはあるかもしれませんが、普通は色んなアレコレが積もり積もって死を選択するに至るのでしょう。注がれた水は最終的に零れ落ちますが、最後の一滴が全てではないのです。

 

だから、ウィリアムの自殺動機は彼自身が語った通り、よく分からないもの。より正確に言えば、彼にしか分からないものと解釈すれば良いのです。ぼんやりとした究極的に個人的なものなのです。

 

しかし、主人公の葛藤は物語の主題そのものですから、そこがぼんやりしていると物語に筋が通りません。よって、構成上、一つに絞らないにしても何とかまとまりを持たせなければなりません。

エドモンズはこうも語っています。

僕は実存哲学をたくさん読みました。主人公ウィリアムはマルティン・ハイデッガージャン=ポール・サルトルアルベール・カミュを読んでいるだろうと思ったからです。(公式サイトより)

 

これで殆ど答えが出ましたね。本作でも彼らからの引用がいくつか出てきました。例えば『異邦人』で有名な小説家・カミュによる次の言葉です。

Nobody realizes that some people expend tremendous energy merely to be normal.

(ある種の人々が、ただ正常であろうとするためだけに、多大なエネルギーを費やしているということに、誰も気付いていない)

これは主人公ウィリアムの口から引用されます(たしかそうでした)。彼は何故この言葉を引用したのでしょう。それは人々は何故正常でありたがるのかという問いに帰結します。その答えは社会的動物である人間の性だということも出来ます。つまり、「非」正常であれば群れ(社会)での生活に支障が生じるという実に単純な理由と、自分は正常であると思うことが出来れば余計な思考を抹殺することが出来る(=社会との折り合いをつけやすくなる)という踏み込んだ理由があるでしょう。

 

後者はとても分かりにくいかもしれません。しかし、ウィリアムの苦悩は十中八九、後者の苦悩です。この余計な思考を言い換えると実存哲学ということが出来るでしょう。そう、カミュハイデッガーサルトルなどに代表される哲学体系です。

 

実存哲学についてはググってください。とても、紙幅の許す限りで説明できるものではありませんし、それをしたら殆どの読者は飽きてしまうので(あれ、もう飽きちゃってますか?もう少しだけ、あとちょっとだけお付き合いを!先っちょだけだから!)。

 

実存とは、存在について考えることとでも言っておきましょう。ウィリアムの自殺動機とはまさにそれです。自分とは何者か、存在とは何か、その問いの果てに「自殺」を選んだのです。

何で?何でそうなっちゃうの?

正常な感覚を持つ人は思うでしょう。しかし、それは正常だからこその感覚です。ウィリアムは「あること」がきっかけで正常から弾き出されてしまったのです。そこがいわゆる物語の本当の始まりでした。次項続きます。

 

 

ピアノが落ちた日に彼は何を思ったか

ここからは少しネタバレです。冒頭にどや顔で邦題を考えたりしましたが、ピアノが落ちた日のことについて話しましょう。と、その前に!

 

未見に人のために、本作の展開をもう少し説明しておきます。本作はWシチュエーション痛快エンターテイメント!と宣伝されています。つまり、物語は2つの視点から展開されていきます。そのひとつが死にたい小説家・ウィリアム。彼は何度も自殺を試みては失敗し、ついにはプロに自分殺しを外注します。そのプロこそがもうひとつの視点、かつての栄光何処へやらリストラ寸前の老いた暗殺者レスリーです。

 

しかし、自分殺しの契約を結んだすぐあと、ウィリアムのもとに「一緒に本を作らない?」とある編集者から電話がかかってきます。その編集者こそがヒロインのエリー・アダムズでした。ウィリアムは事の詳細をエリーに打ち明けます。

 

一方、レスリーは既婚者です。妻のペニー・オニールはちょっと空気が読めない感じのおばちゃんですね。ふたりは結構なおしどり夫婦で、現役に執着するレスリーを、ペニーは良く支えます。俺はまだやれる。レスリーは今月のノルマを達成すべく、是が非でもウィリアム暗殺へと向かいます。

 

分かり切ったことでしょうが(身も蓋もない…)ウィリアムとエリーは逃亡の最中、恋に落ちます。当然ですよね。だって映画ですから。お熱いチューもします。当然ですよね。だって洋画ですから。あ、本作のキスシーンは冗談抜きで秀逸です。

 

つまり、本作はふたつのカップルの物語を、暗殺者とターゲットの逃亡劇を結節点として描く、Wシチュエーションコメディです。

 

が!今回は主にウィリアムに絞って語ることにします。長くなっちゃうので。

ということで話を戻しましょう。ピアノが落ちた日についてです。主人公は正常な…というと色々語弊があるので、平凡なとしときましょう。よくある平凡な家庭に育ちました。優しい両親とウィリアム。幸せな日々がそこにあり、ウィリアムの日常は正常そのものでした。そんなある日。いつものように歩いていると…

 

ハイ!ここからおっきなネタバレ!(主人公の過去について)

 

 

 

いつものように歩いていると…なんと空からピアノが降ってきたのです。クレーン車で釣り上げていたのが切れてしまったようですね。そして、不幸にも両親はその下敷きになってしまいます。母親は潰れてしまい、即死でしょう。しかし、父親の方は微かに息がありました。そして、ウィリアム少年は期待するのです。死ぬ前に父親が…

 

何かすごいこと言うぞ。きっと言うぞ!世界の真理を明かすような、そんな劇的な最期の言葉を。

 

しかし、父親は何か言葉を発する前に息絶えてしまいます。そして、ウィリアムは悟ります。死はあまりに突然で、あまりに理不尽で、あまりに無意味なものであると。

 

ウィリアムが正常から弾き出された瞬間です。カミュは正常であるには多大なエネルギーを費やすと語りましたが、それは一度正常から弾き出されてしまった者が正常に戻ることの困難さを言い表したものだと思います。

 

ウィリアムは死の無意味性に直面して、生の意味を見失ってしまったのです。あるいは死の理不尽さに、生の理不尽さを重ねてしまったのです。そして、おそらく私たちが正常であることに多大なエネルギーを費やさなければならない理由もコレです。コレに気付いてしまえば、ウィリアムよろしく自分が存在する意味について延々と悩む羽目になり、そして、もう後戻り出来ないのです。

 

だから、ウィリアムは小説家になったのでしょう。

しかし、小説家としての芽が出ない。自分の平凡さを痛感していきます。それと同時にいつピアノが落ちてくるか分からないという不安もあったでしょう。死の理不尽さと無意味性への思考が深まるとともに、生の理不尽さと無意味性への実感を強めていったのでしょう。結局、生は死であり、死は生なのです。どちらかが揺らぐと、もう片方も揺らぎます。よく生きるにはよく死を意識し、よく死ぬにはよく生きねばなりません。主人公は幼少期に死に絶望してしまってから、生に絶望し始めていたのです

 

冒頭でウィリアムにとって「死」はより良き生を完成させるものと書きました。ウィリアムは小説が認められなかったことを引き金にして、生に見切りをつけます。あとは、生を完成させるのみ。この辺が映画本編で描かれたウィリアムの死生観なのだと思います。生と死は別々にあるものではなく、同時に存在していて連動してる。実存哲学を読んでる人が考えそうなことですねぇ。

 

 さて、ウィリアムは特別な存在になることで無意味で理不尽な死を超克しようともがきましたが、ついにそれは叶わず、無意味で理不尽な生=平凡な生に終止符を打とうと決意しました。自殺という物語性ある死をもって、平凡な生を特別な生に変換しようとしたのでしょう。死は無意味で理不尽という事実を覆す術がそれしかなかったのです。小説家で大成していたらその生は特別なものになっていたので、「小説が売れなかったから自殺を決意した」というのは表面的には正しい解釈といえます。 (もっとも小説家として大成していても、同様に平凡な生だと絶望して自殺を試みる可能性は大いにあります。いえきっとそうなっていたでしょうね。結局、根本的にベクトルが違うんです。)

 

このように、彼にとって生と死はセットなので、これから自殺するというのに「死ぬ前にやり残したこと」に異常に執着するのです。そして、レスリーからどんな暗殺が良いかと聞かれたときにも、トラックに轢かれそうになっている子供を助けて死ぬ「英雄死」のプランに惹かれたのです。…プランというのは、死に方カタログがあるのです。絞殺や刺殺、銃殺などに加え、豊富なシチュエーションから選ぶことが出来るんですよ、なんか嫌ですね。結局、予算的な都合で一番オーソドックスな遠距離からの狙撃というプランを選んだわけですが、彼が本当に望んでいたのは「英雄死」のような物語性のある死でした。

 

以上が、ピアノが落ちた日に彼が何を思ったかの僕なりの答えです。そして、ピアノが落ちた日から彼が何を思ってきたかの推察です。

 

 

彼の未練とは何なのか

なんか長くなりましたね…。この連載記事はもっとコンパクトにやっていくつもりなんですが。まぁその時々のテンションで書きます。では、いよいよ結論に移っていきたいと思います。

 

ここまで、「彼は本当に死にたいのか」「彼は何故死にたいのか」の二点について話してきました。そして、彼は自分の存在意義について悩み、平凡な生を特別にせんがため死ぬのだ。しかし、未練がある。このまま死んでも本当に自分の望む死(生)が得られるのかという疑問があったのだ。というように考察してきました。何か足りないような気がする、ということですね。そして、その未練とは何なのか。ウィリアム自身、実は気付いていますよね、初めから。

 

ヒントは「英雄死」に惹かれるシーンです。彼は恍惚と妄想しますが、死に際に美人ナースの腕に抱かれて―なんて言っちゃいます。ソレですよ、ソレ。

 

僕も完璧なる実存死を達成するには、あるいはより良き生を全うするにはソレが必要だと思うんです。つまり、です。はい、作品の基本プロットに立ち返ってきましたね。本作は二組のカップルの物語です。主題はそこにあります。ドタバタ逃亡劇はその結節点であり、舞台設定のひとつでしかありません。

 

この社会でちゃんと生きるには正常である必要があります。つまり、平凡を認める必要があります。その上でより良く生きるには特別を手に入れたいと思うものです。

正常から弾き出された人は早急に正常を取り戻さなければ、最悪の場合、死に至ります(多くは自殺です)。しかし、それにはもともと正常である人が正常であるために費やすエネルギーよりも遥かに多くのエネルギーを要します。ぶっちゃけ無理です。

 

ややっこしい。その辺全部まとめて茶々っと解決する方法はないものか。

あるんです。それこそがです。愛は究極的に根源的な「物語」です。

 

愛はありふれた平凡であり、かけがえのない特別でもあります。平凡(正常)と特別を兼ね備えるもの、それが愛なのです。

 

ではここで最後のネタバレ!(結末部分)

 

 

 

ウィリアムとレスリーは和解し、一件落着します(この辺は主題を考えるうえで重要ではないので割愛します。各々本編を観てください)。そして、ウィリアムはエリーとの平穏な日常を手に入れます。本当に生きていて良かった。エリーとの愛情に平凡(正常)と特別の両方を満たされたウィリアムは幸せでいっぱいです。こうして生きる意味を見出したウィリアムと、彼に生きる意味を与えたエリーのふたりを映しながら、本作は終幕します。となると思いますか?思い出してください。予告PVの最期のフレーズを。「驚きの結末」

 

(※余談ですが、PVで「驚きの結末!」とか「ラスト1秒ですべてが覆る!」とか言うのやめてほしいですよね。これこそ最大のネタバレじゃないかと思わないですか。僕はネタバレとかあまり気にしないんですが、これはどうなんだろといつも思っています。)

 

そんなある日、ふたりはいちゃいちゃしながら歩いていました。すると、子供が道に飛び出し、そこへ車が猛スピードで突っ込んできます。それを見たウィリアムは走り出し…。子供を庇って、車に轢かれてしまいました。子供は無事。しかし、ウィリアムは血を流し…エリーの腕に抱かれています。その一部始終を目撃していた通行人たちが拍手をします。そして、ウィリアムは最後に「完璧だ」とこぼし、徐々にズームアウト、終幕します。

 

ここに完璧なる実存死が完成しました。彼はどこかで無意識的に感じていた未練、何か足りないという感覚を、エリーとの愛に見出しました。その瞬間、彼は不死身ではなくなったのです。つまり、無意識的に死を避けてい心理が無くなったのです。最後のシーンが自殺だったのか事故だったのかそれは分かりません。しかし、ウィリアムが心から良き生を生き、良き死に死んでいったことを疑う余地はありません。まぁ皮肉なことですね、自殺を試みていたときはなかなか死ねず、自殺をやめた途端死んでしまったのですから。つまり、(良き)死への欲求が彼を生かしており、それがなくなったから彼は死んだというようにも考えられますよね。そういう意味では、最後の死は必然だったと。

 

さて、ここでひとつ気付くことがあります。ヒロイン・エリーの役割です。役割というのは、制作側が彼女に物語上どういう役割を与えたかということです。視聴者は、ウィリアムに自殺をやめさせ、生きたいと思わせるための役割だと思いました。しかし、それは少しだけ違いました。ウィリアムの完璧なる実存死に最後のピースをはめてあげること。これこそが本作がエリーに与えられた本当の役割だったのではないでしょうか。

 

完璧なる実存死に足りないもの、それはでした。だから「完璧だ」という台詞でウィリアムは死んでいきます。しかし、その死は物語序盤の自殺とは似て非なるものです。それは結果だけではありません。ウィリアムがもし2000ポンドより多くのお金を持っていて、「英雄死」のプランを選んでいたとしても、そこには中身が伴っておらず、とても良き死とは言えなかったでしょう。なぜなら、より良く 生きようとしていなかったからです。これは冒頭でも指摘しました。しかし、ラストのウィリアムはより良く生きようとしています。だから、彼の死は良き死でした。

 

当然自殺は良くないと思います。当然です。自殺は好きじゃありません。当然です。でも、だから死について考えなくても良いということにはなりません。むしろ、死についてしっかりと考えるべきです。良き死には良き生が、良き生には良き死が訪れるのですから。生きるとは死ぬことです。死ぬとは生きることです。よりよく生きましょうとりあえずそれが私たちがより良く死ぬために出来ることです

 

最後に。少しだけレスリーについても触れておきましょう。ウィリアム=存在意義を見出せないことに悩む人物でした。それに対して、暗殺者であるということに存在意義を見出しているレスリーは、ウィリアムとまるで正反対のように思えますよね。でも、違うんです。とても良く似ている。というのが、レスリー暗殺者で無くなったら自分はどうなるのかという不安と常に戦っていたからです。それ以外に自分の存在を見つけ出せないでいる人物なのです。本作はそれぞれ存在を見失っている(実存が揺らいでいる)ふたりの主人公が、自分を見つけだす物語だと言い換えることが出来るでしょう。

 

だから、本作はハッピーエンドです。ふたりとも実存の在処を探し、そして、見事に見つけ出したのですから。

 

レスリーも妻・ペニーとの間に自らの実存を見つけだしていきます。それがどんなものか気になる方はぜひ劇場に。ぜひ劇場に行って、自らの実存を探してみてくださいな。

 

 

以上。それでは老いぼれ暗殺者・レスリーの決め台詞で本稿を締めたいと思います。

Have a nice death!

(良き死を!)

 

 

 (本編映像ーロングPV)

過去改変の想像力 『スロウスタート』論

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(公式サイトhttps://slow-start.com/)

 


ほんの些細なこと。『スロウスタート』を観て思ったほんの些細なことを少し話そうと思う。 

この春から高校一年生になる、人見知りな女の子、一之瀬花名。彼女はとある理由から都会の両親のもとを離れ、いとこの志温が管理人を務めるアパート“てまりハイツ”で暮らしている。新しい高校、新しい毎日の中で起こる、素敵な出会いの数々。花名はまわりの人たちとゆっくり心を通わせて、楽しくてきらきらとした時間を過ごしていく。子供みたいにはしゃいだり、大人みたいにドキドキしたり……かわいさ溢れ、心あたたまる、スロウな成長物語。(アニメ「スロウスタート」公式サイトより)

 

 

あらすじを読んでもらえば分かるかもしれないが、本作は「空気系(日常系)」というジャンルの、いわゆる“萌えアニメ”というやつだ。『けいおん!』『ご注文はうさぎですか?』『きんいろモザイク』など同ジャンルを代表する作品を次々と世に送り出している芳文社まんがタイムKRコミックスで本作は連載されている。

 

もちろん、萌えアニメなんだから肩の力抜いて観ろよ(笑)

という苦笑交じりのご忠告もっともであるので、本記事は「あーかわいい。ほんとかわいい。お、今のとこと深いな。え、深いんじゃね?」というほんの些細な感想である。

 

突然だが、ホイーラーの遅延選択実験をご存知だろうか。量子論における有名な思考実験だが、萌えアニメの感想で量子論を詳細に述べても仕方がないので、その結果だけを簡潔に述べようと思う。

その実験結果とは「現在の行い」で「過去」を変えることが出来るというものだ。

そんなバカなことあるだろうか。この思考実験が正しいとするならば、因果関係が逆転することになってしまう。現在が「原因」、過去が「結果」となってしまうのだ。「現在の行い」に起因して「過去の状態」が変わるというこの逆因果は、しかし、量子論の研究成果として今もなお否定されるには至っていない。未来は過去である。

そもそもアインシュタイン相対性理論において証明したように個々人(またはその時々)によって“時間の流れ”は異なるのだ。時間とは伸び縮みするもので…

 

と、そろそろ『スロウスタート』の話をしよう。
うん、ホイーラーの遅延選択実験とか量子力学とか相対性理論を出したのは、正直言うとインテリぶりたかっただけである。

だがまったくの無関係という訳でもない。本作でも同じように小さな過去の改変が行われているのではないかと思うのだ。もちろん屁理屈だが(それは追々)。

 

 

さて“スロウスタート”というタイトルはどういう意味だろうか。


それは、アニメでは第1話のラストシーンにおいて唐突に明かされた。入学式からメインキャラの顔合わせ、初交流と日常系アニメの王道をなぞったかのような本編が終わり、エンドロールも流れた後のCパート。最後の最後に、主人公・花名によるナレーションで衝撃の設定が明かされるのである。

「一之瀬花名。17歳。中学浪人で1年遅れのスロウスタートだけど私の高校生活が始まりました。」

中学浪人!? 最後の最後にとんでもない設定をぶち込んできたな。
まぁ“中学浪人”といってもそんなに重い理由があるわけではない、というところはいかにも日常系作品らしい。花名は高校入試直前におたふく風邪にかかってしまい、受験できなかったという設定だ。そして、花名は中学浪人をひどくコンプレックスに感じている。1年間の浪人生活のほとんどを引きこもって受験勉強に費やしたことも重なり、すっかり自信を喪失して、常に不安を感じるようになってしまっていた。そのため、百地たまて、十倉栄依子、千石冠らと出会い仲良くなっていく過程において、なかなか中学浪人という秘密の過去を打ち明けることが出来ない。そんな一抹の後ろめたさを抱えながらも、とても充実した日々を過ごしていく、というのが本作の大まかなストーリーだ。

そして、アニメ第11話(と第1話)を、特に印象的なエピソードとして取り上げたい(異論はないだろう!)。

まずはアニメ第1話。入学式。すっかり自信を喪失し、なかなか自分から(1歳年下である)クラスメイトに話しかけることが出来ないでいた花名。しかし、自己紹介も緊張して上手くこなせない花名を見兼ねてか、担任の榎並先生が「お、一之瀬、今日が誕生日じゃないか」と一言、声をかける。するとそれがきっかけとなり、コミュ力に長けたたまてが放課後に「お誕生日の人さーん」と話しかけてきた。それにつられるように栄依子と冠も集まってきて、ここにメインキャラクターが勢ぞろいすることになる。クラスメイトとやっと話すことができた花名は、このきっかけを活かしたい!と考える。しかし、あと一歩が踏み出せない。それを見た栄依子は気を利かせて「遠回りになるけど一緒に帰らないか」と花名を誘う。そして、帰り道、駅の近くの桜並木をみんなで見る。1年間ずっと引きこもっていた花名は、その桜に何とも言えない感動を覚える。そんな花名に栄依子は次のように問いかける。

「ね、遠回りして良かったでしょ?」

この台詞こそが本作の重要なテーマを表している。

まさに完璧な第1話だった。
そして、これは第11話のあの場面に繋がっていくのである。

当然、2~10話では“かけがえのない日常”が積み重ねられてきた。テスト勉強をしたり、お泊り会をしたり、プールに行ったり、秘め事を教えてもらったりと、4人の間に蓄積されていった日常はたかが数か月のものとはいえ、何物にも替えがたい絆となっていた。

そのうえで、第11話ではみんなで夏祭りに行く。さんざん屋台をまわったあと、祭りの会場から離れて、くじ引きで当てた手持ち花火を楽しみつつ、とりとめのない会話をしている。すると、打ち上げ花火が空を彩り始めた。それを見て、たまては「我々の夏休みを祝うような花火ですね!夏休みは始まったばかりですからね。これから楽しいことがいーっぱいありますね」と楽し気に話す。みんなは「そうだ」と幸せをかみしめる。そして、花名は花火の余韻に浸りながら、1話の栄依子の言葉を思い出していた。「遠回りして良かったでしょ?」心の中で、花名は次のように答える。

「うん、良かった。遠回りして良かったよ!」

1話では下校中の寄り道を指していた“遠回り”に対して、花名は「(遠回りして)良かった」と思う。それが11話では人生の寄り道(中学浪人)を遠回りと表現して、心から「良かった」と思うようになった。

花名は中学浪人(高校浪人と言うべきだとも思うが←今更)をコンプレックスに思っていた。しかし、11話において「遠回りして良かった」と口にするほどになった。「浪人」したという過去はちっとも変わっていない。しかし、ここでは小さな過去の改変が行われているとは言えないだろうか。もちろん、量子論のそれとはまったくもって違うものだ。ただ、躓いて転けてしまったところからのリスタートか、今に繋がる(休憩/休息後としての)スロウスタートでは大きな違いがあるだろう。スタートをやり直さなければいけないのか、過去や今を含めての一連を“ゆっくりのスタート”と位置付けられるかはまったく別物だ。11話では花名の浪人に対する認識がリスタート(やり直し)から、スロウスタート(遠回り)へと変わったのだ。1話の栄依子の一言によって(そして、2~10話の積み重ねによって)、花名は順を追ってリスタートからスロウスタートへと変わることができたのではないか。

この「やり直し」から「遠回り」への転換こそが小さな過去の改変である。

「浪人した」という過去は、その事実こそ消せなかったものの、恥じるべき心のシコリとしての過去から、今に繋がるための過去へと変わったのだ。

この小さな(そして大きな)過去の改変は、何によってもたらされたものだろうか。それはやはり「現在」である。「現在の行い」が過去へと訴求して、過去を書き換えていったのだ。

これはもちろん屁理屈である。変わったのは過去の特定の出来事に対する“意味合い”だけである。しかし、ここで大事なのはそういうことなんだと思う。僕たちはこの花名たちが教えてくれたことを大切にするべきだ。

タイムマシーンなんてなくたって、過去は変えられる。

花名は、たまてや栄依子、冠たちと出会ったことに幸せを感じている。そして、この素晴らしき友たちに出会うには、「浪人するしかなかった」のだ。これはあくまでも結果論である。

だが、もしもタイムマシーンがあったとしたらどうだろう。もし本当に過去に戻れたとしたら、過去に戻った花名はどのような選択をするだろうか。現在のみんなとの関係性を捨てて、コンプレックスであった浪人を未然に防ごうとするだろうか。

僕は浪人を「選択する」のではないかと思う。もはや浪人云々は花名にとって、優先度の高い事項ではなくなった。過去に戻ったとしても、花名は浪人を選択して高校入学までの1年間を、みんなに「私はスロウスターター(浪人生)なのだ」という小さな秘密を打ち明けるためのシミュレーションに費やすんじゃなかろうか。
「栄依子ちゃん…みんな…今度は私も秘密をちゃんと話すからね」といった感じで 。

そして、結局『スロウスタート』を小難しくこねくり回して何を言いたいのかと言うと、要は次のようなことなのである。

過去は変えることができないというのは間違いだ。過去と未来は「過去→未来」ではない。その矢印は双方向的なのだ。過去の出来事それ自体を変えることは出来ない。しかし、現在をより良くすることによって、特定の過去に対する意味合いは大きく変わってくる。これはハイデガーの語る運命論に近いかもしれない。つまりは、現在をより良く生きることで、特定の過去がピックアップされて、結び付けられて、意味が形成されていく。その意味を運命(だった)というのだ。つまり、運命は過去が先にあるのではない。より良い現在を手に入れることが先にあり、その現在に繋がった過去が後になって選び出され、運命と名付けられる。

浪人という過去は、その事実性は何の揺らぎもない。しかし、その内容は大きく変化した。

運命は「現在→過去」へと向いているのだ。現在をより良く生きることは運命を呼び寄せる。そして、自分の生を肯定する手助けとなってくれるのだ。

話はだいぶ遠くにまで飛んでいったような気がするが、とにかくこの記事は僕が『スロウスタート』11話にとてつもなく感動してしまったことに端を発する。どの学校を受験するか、現役か浪人か。いつどの学年として入学するか。どこかがほんの少し違っただけで出会えなかった人がいる。そして、どんな人と出会うかで過去の自分を肯定できる。浪人という過去を愛おしくさえ思える。

“浪人したから”こその幸せだと、「遠回りして良かった」と、花名が思えて本当に良かった。

 

ちなみに、僕は圧倒的“花名ちゃん推し”です (完)