Wild Journey

良き価値を取り戻すための荒旅

実存の在処を探る 『やっぱり契約破棄していいですか!?』論

『やっぱり契約破棄していいですか!?』(原題:DEAD IN A WEEK: OR YOUR MONEY BACK)を鑑賞して来たのでご紹介します。f:id:nishiken0192:20190925140834p:plain

(公式サイト:http://yappari-movie.jp/)

 

(予告PV)

 

 

執筆者:にしけん(豊西旅路)がお送りする連載記事、題して「物語の話をしようじゃないか!」(暫定)では、 

神々の土地ーロマノフたちの黄昏ー』(宝塚歌劇 / 作演出・上田久美子)

スロウスタート』(テレビアニメ / 原作・篤見唯子)

に続いて、3作目『やっぱり契約破棄していいですか!?』(イギリス映画 / 監督・トム=エドモンズ)をご紹介します。

 

あらすじ

小説家志望の青年ウィリアムは、真っ暗な橋の上で人生に別れを告げ、落ちる覚悟を決めた。その瞬間、年老いた男が声をかけ、自分が必要になった時連絡するようにと名刺を差し出した。ウィリアムは仕方なく受け取るが、その助けは要らないとばかりに橋から落ちていく。真っ逆さまに、橋の下を通過する観光船の上に……。一方レスリーは、英国暗殺者組合の会員として誇らしいキャリアを持っているが、今や暗殺件数のノルマを達成できずクビ寸前。自殺スポットに出向いては自殺志願者と契約し、引退を先延ばしにする日々を送っている。翌日、運悪く生き延びてしまい絶望するウィリアムは、橋の上で受け取った名刺を思い出す。7回目(中止を含めると10回目)の自殺未遂を経て、ついにプロの手を借りることを決心し名刺に書かれた番号へ電話した。とあるカフェで待ち合わせたウィリアムとレスリーレスリーが持っていたパンフレットには「あなたの死―あなたのやり方で」と書かれている。
その契約内容とは、「ターゲットを一週間以内に殺すことができなければ返金する」というものだ。ウィリアムは自らをターゲットに設定し、契約書にサインする。契約成立後、ウィリアムは出版社のエリーから電話を受ける。なんと、自分の書いた小説を出版したいというのだ。ウィリアムとエリーは出版に向けて話し合うなか、急速に惹かれあう。ウィリアムに生きる希望が湧いてくるが、そんな希望は銃声によって打ち砕かれてしまう。しかし、レスリーの腕は全盛期とは違って鈍っていたのだ。その隙にウィリアムとエリーは生きるために逃亡する!一方レスリーは、年間ノルマを達成し引退を食い止めようと二人を必死に追いかける。自分には今でも才能があることを証明しなくてはならないのだ!「やっぱり契約破棄していいですか!?」―そんな言葉は許されるわけがなく、ウィリアムとレスリーの人生を懸けた一週間の幕が上がる!果たして、最後に笑うのはどっちだ!? (公式サイトより)

 

まずはタイトルについて。いや、ダサくないですか。と思ったんですが、よくよく考えてみると原題も『Dead in A Week(一週間以内の死):Or Your Money Back(さもなくば返金)』なので、どっちもどっちだな

 

要するに、自殺願望を持つ小説家の主人公ウィリアムが、クビ寸前の老いぼれ暗殺者であるもう一人の主人公レスリー自分殺しを依頼し、「ターゲットを一週間以内に殺すことができなければ返金する」という契約を結んだまでは良かったが、やっぱり死ぬのをやめたくなり、この契約破棄していいですか!?って聞いてみたら、問答無用ぉー!となって、契約期間である1週間のドタバタ逃亡劇が始まるというような内容です。死にたい小説家と、殺したい暗殺者、コメディタッチで描かれるちょっぴり黒い映画ですね。巻き添えで関係ない人が結構死ぬので(しかもシナリオ上回収されないので)、そういうのが苦手な人は結構いるかもしれませんね。イギリスのブラックユーモアは人を選びます。

 

タイトルの件に戻りますと…一応、コメディ作品なのでこのくらい軽いノリでも良いかなとも思いましたが、作品の深度を考えると、それは少し惜しい!とも思うのです。もう少しターゲットにすべき層が違うのではないかということですね。じゃあ、どんなタイトルなら良かったのか。いっそのこと『完璧なる実存死』でも良かったのではと思いますが、商業映画の宿命として興行の問題がありますので『ピアノが落ちるその前に』くらいでどうでしょうか。

未見の方はピアノが?落ちる?どゆこと?と疑問に感じるでしょうが。それは一先ず置いといて、本作はそういう話なのです。まぁ想像してみてください。上からピアノが落ちてきたらどうなりますか?死にますよね、確実に。でも、ピアノが落ちてくるなんて突拍子もないことを予想できるはずもない。そう、死はいつ訪れるか分からないものです。当たり前ではありますが。あなたは天寿を全うできるかもしれないが、1秒後に突然死するかもしれない。死はコントロールできない恐怖です。しかし、ただひとつだけ死をコントロールする方法があるとすれば、それは自殺なのです。

 

つまり、本作は「死」をテーマにした作品です。そして、主人公は完璧なる実存「死」を実践しようとします。しかし、ここで重要なのは、主人公にとって「死」はより良き生を完成させるものであることです(より良く生きようとはしていませんが)。だから「死ぬ前」にものすごく執着します。「死ぬ前にやり残したこと」彼は何度そう言うでしょうか。結構言うんです。

それは絶望に苛まれ、7回(未遂含め10回)も自殺を試みた人物の考えることでしょうか。

 

まとめると、「死」はいつ訪れるか分からない。だから、その前に「生」を価値付けておかなければならない。それが幼少期主人公の心理であり(後述)、成長した主人公に自殺を選択させていった背景の思想です。そのことを表現して『ピアノが落ちる(=ある日突然死んでしまう)その前に』というタイトルが良いと、僕は言ったのです。(どや顔)

 

論考

論考…というほど大したものじゃありません。ただ、感想というには自己解釈を入れすぎだし、考察というには少し感じが違うと思ったのです。だから、今後もこの見出しで記事を書いていくと思います。

 

さて、あらすじや前提はもう充分語りましたので、ここからはがっつり本題に入っていこうと思います。なのでネタバレします。…ネタバレされても面白い映画は面白いよ?だって良い映画は文脈を楽しめるものだから!とは言ってもネタを明かされるのは嫌だという人はいるでしょう。

 

この連載記事は、すでに鑑賞した方には新しい視点を提供したいと意図されているものであり、未見の方には「見て見て見て見て見て見て見て!」という猛烈なアピールでもあるので、良いでしょう!配慮します。本作においては、本当にネタバレされたら少し興ざめ?という部分は、結末部分だろうと思いますので()、そこに入る前には注意喚起します!それ以外はネタバレ含みつつ進めていくことをご了承ください。(※ところどころ事前喚起しますが、自己責任で!)

 

前置きが長くなりました。以下、始めます。

 

 

ウィリアムは本当に死を望んだか

いきなり作品の根幹を揺るがす問いから始めようと思います。僕は自殺願望のある主人公ウィリアムの自殺願望に疑義を呈します。彼は7回(未遂含め10回)も自殺を試みているじゃないかという声が聞こえてきそうですが、むしろそこですよね。

 

本作はウィリアムが橋から身を投げようとするショットから始まります。そこでもう一人の主人公、暗殺者レスリーと出会うのです。レスリーは英国暗殺者組合(笑)に加入しており、一か月の売り上げノルマ(笑)を達成するために、まさに自殺しようとしている者に営業(笑)をかけて、やりくりしているクビ寸前の老いぼれ暗殺者です。あぁなんて香ばしいブラックコメディなんでしょう。あまりのイギリスらしさに思わず微笑んでしまいます。暗殺者組合?なにそれ!なにそれ!ノルマ!?ノルマがあるの?営業?自殺幇助は暗殺のノルマとして有りなの?と、ものすごくシュールな世界観で楽しいです。

 

と、それは良いとして…。レスリーは暗殺(暗殺とは?)が必要ならいつでもご連絡をと名刺を渡して去っていきます。…暗殺者がビジネスカードなんて渡しても大丈夫なのか?足が付かない?

 

しかし、ウィリアムはそのまま身投げを実行します。が、運悪くあるいは運良く、そこに船が通りかかり、その船の上に落下します。でも、僕はあとあとこの一連のシーンを振り返って、次のように思いました。

 

船が見えてから飛び降りたのでは?

 

と。正確には「船が見えたから」ですね。つまり、彼は自殺願望を気取っているけど(いえその真剣さは疑いませんが)、無意識的に生を選択しているということです。それは何故でしょうか。僕は未練があるからだと思います。「不死身なんじゃないか」そう皮肉交じりに自己分析していたウィリアムですが、不死身の要因は彼自身の無意識的な未練にあって、それは運命でも運勢でもなんでもなく彼の選択そのものだったのです。だから、ヒロインとの出会いや対話によって自殺をやめて生きようと思った、この展開をそのまま理解するのは少し違うと思うのです。この物語におけるヒロインの役割はむしろその真逆です。ま、それは追々。

 

ウィリアムはそもそも本当には死を望んではいなかった。その証拠としてあるシーンを挙げておきましょう。ウィリアムは喫煙者でした。煙草を吸うシーンは何回か出てきます。いつだったか、ウィリアムはふと煙草のパッケージに目を落としました。そこには「喫煙は死を招く」というようなことが書かれていました。ウィリアムはそれを見て煙草をそっと戻します。…え、戻すの?と思いませんでしたか。僕は思いました。もしかして本当は死にたくないんじゃないか。僕はこのシーンを見たときそう感じました。結果としては、半分そうで半分そうじゃなかったんですが。ま、これも追々。

 

ここで彼の自殺理由について触れておく必要があるでしょう。

彼は小説家でした。そして、表面上の自殺動機は(私たち視聴者から見て)「小説が売れないから」とされ、本人の口からは良く分からない哲学的動機がつらつらと語られますが、本当に何を言っているのか良く分からない。まじで。

 

そして、本作は結局、彼に明確な自殺動機を与えないまま幕を閉じます。ツイッターの感想をぼちぼち見ていますと、この点に不平不満を抱いている方が多い印象を受けました。「結局何で自殺したかったん?」ということですね。

 

ただ、それに対しては、本作が長編映画の初挑戦となるトム・エドモンズ監督が明快な答えを用意してくれています。

ウィリアムが死にたい理由を一つだけに絞りたくなかった。それでは単純すぎるし、苦しむ人を助けるサマリア人協会にも相談し、自殺の理由が一つだけというのは正確ではないことが分かったから。ウィリアムには疎外感があり、はっきりした目的も欠如している。でも、スクリーン上で描くとすると、彼に方向性を与えなくてはならない。でも、こういったことは現代社会ではある意味一般的な感情ではないかと思います。だからこそ真実味がある。(公式サイトより)

ごもっとも。僕はそう思いました。人間の感情というのはそう単純なものではありません。明確なコレというものが最終的に引き金を引くことはあるかもしれませんが、普通は色んなアレコレが積もり積もって死を選択するに至るのでしょう。注がれた水は最終的に零れ落ちますが、最後の一滴が全てではないのです。

 

だから、ウィリアムの自殺動機は彼自身が語った通り、よく分からないもの。より正確に言えば、彼にしか分からないものと解釈すれば良いのです。ぼんやりとした究極的に個人的なものなのです。

 

しかし、主人公の葛藤は物語の主題そのものですから、そこがぼんやりしていると物語に筋が通りません。よって、構成上、一つに絞らないにしても何とかまとまりを持たせなければなりません。

エドモンズはこうも語っています。

僕は実存哲学をたくさん読みました。主人公ウィリアムはマルティン・ハイデッガージャン=ポール・サルトルアルベール・カミュを読んでいるだろうと思ったからです。(公式サイトより)

 

これで殆ど答えが出ましたね。本作でも彼らからの引用がいくつか出てきました。例えば『異邦人』で有名な小説家・カミュによる次の言葉です。

Nobody realizes that some people expend tremendous energy merely to be normal.

(ある種の人々が、ただ正常であろうとするためだけに、多大なエネルギーを費やしているということに、誰も気付いていない)

これは主人公ウィリアムの口から引用されます(たしかそうでした)。彼は何故この言葉を引用したのでしょう。それは人々は何故正常でありたがるのかという問いに帰結します。その答えは社会的動物である人間の性だということも出来ます。つまり、「非」正常であれば群れ(社会)での生活に支障が生じるという実に単純な理由と、自分は正常であると思うことが出来れば余計な思考を抹殺することが出来る(=社会との折り合いをつけやすくなる)という踏み込んだ理由があるでしょう。

 

後者はとても分かりにくいかもしれません。しかし、ウィリアムの苦悩は十中八九、後者の苦悩です。この余計な思考を言い換えると実存哲学ということが出来るでしょう。そう、カミュハイデッガーサルトルなどに代表される哲学体系です。

 

実存哲学についてはググってください。とても、紙幅の許す限りで説明できるものではありませんし、それをしたら殆どの読者は飽きてしまうので(あれ、もう飽きちゃってますか?もう少しだけ、あとちょっとだけお付き合いを!先っちょだけだから!)。

 

実存とは、存在について考えることとでも言っておきましょう。ウィリアムの自殺動機とはまさにそれです。自分とは何者か、存在とは何か、その問いの果てに「自殺」を選んだのです。

何で?何でそうなっちゃうの?

正常な感覚を持つ人は思うでしょう。しかし、それは正常だからこその感覚です。ウィリアムは「あること」がきっかけで正常から弾き出されてしまったのです。そこがいわゆる物語の本当の始まりでした。次項続きます。

 

 

ピアノが落ちた日に彼は何を思ったか

ここからは少しネタバレです。冒頭にどや顔で邦題を考えたりしましたが、ピアノが落ちた日のことについて話しましょう。と、その前に!

 

未見に人のために、本作の展開をもう少し説明しておきます。本作はWシチュエーション痛快エンターテイメント!と宣伝されています。つまり、物語は2つの視点から展開されていきます。そのひとつが死にたい小説家・ウィリアム。彼は何度も自殺を試みては失敗し、ついにはプロに自分殺しを外注します。そのプロこそがもうひとつの視点、かつての栄光何処へやらリストラ寸前の老いた暗殺者レスリーです。

 

しかし、自分殺しの契約を結んだすぐあと、ウィリアムのもとに「一緒に本を作らない?」とある編集者から電話がかかってきます。その編集者こそがヒロインのエリー・アダムズでした。ウィリアムは事の詳細をエリーに打ち明けます。

 

一方、レスリーは既婚者です。妻のペニー・オニールはちょっと空気が読めない感じのおばちゃんですね。ふたりは結構なおしどり夫婦で、現役に執着するレスリーを、ペニーは良く支えます。俺はまだやれる。レスリーは今月のノルマを達成すべく、是が非でもウィリアム暗殺へと向かいます。

 

分かり切ったことでしょうが(身も蓋もない…)ウィリアムとエリーは逃亡の最中、恋に落ちます。当然ですよね。だって映画ですから。お熱いチューもします。当然ですよね。だって洋画ですから。あ、本作のキスシーンは冗談抜きで秀逸です。

 

つまり、本作はふたつのカップルの物語を、暗殺者とターゲットの逃亡劇を結節点として描く、Wシチュエーションコメディです。

 

が!今回は主にウィリアムに絞って語ることにします。長くなっちゃうので。

ということで話を戻しましょう。ピアノが落ちた日についてです。主人公は正常な…というと色々語弊があるので、平凡なとしときましょう。よくある平凡な家庭に育ちました。優しい両親とウィリアム。幸せな日々がそこにあり、ウィリアムの日常は正常そのものでした。そんなある日。いつものように歩いていると…

 

ハイ!ここからおっきなネタバレ!(主人公の過去について)

 

 

 

いつものように歩いていると…なんと空からピアノが降ってきたのです。クレーン車で釣り上げていたのが切れてしまったようですね。そして、不幸にも両親はその下敷きになってしまいます。母親は潰れてしまい、即死でしょう。しかし、父親の方は微かに息がありました。そして、ウィリアム少年は期待するのです。死ぬ前に父親が…

 

何かすごいこと言うぞ。きっと言うぞ!世界の真理を明かすような、そんな劇的な最期の言葉を。

 

しかし、父親は何か言葉を発する前に息絶えてしまいます。そして、ウィリアムは悟ります。死はあまりに突然で、あまりに理不尽で、あまりに無意味なものであると。

 

ウィリアムが正常から弾き出された瞬間です。カミュは正常であるには多大なエネルギーを費やすと語りましたが、それは一度正常から弾き出されてしまった者が正常に戻ることの困難さを言い表したものだと思います。

 

ウィリアムは死の無意味性に直面して、生の意味を見失ってしまったのです。あるいは死の理不尽さに、生の理不尽さを重ねてしまったのです。そして、おそらく私たちが正常であることに多大なエネルギーを費やさなければならない理由もコレです。コレに気付いてしまえば、ウィリアムよろしく自分が存在する意味について延々と悩む羽目になり、そして、もう後戻り出来ないのです。

 

だから、ウィリアムは小説家になったのでしょう。

しかし、小説家としての芽が出ない。自分の平凡さを痛感していきます。それと同時にいつピアノが落ちてくるか分からないという不安もあったでしょう。死の理不尽さと無意味性への思考が深まるとともに、生の理不尽さと無意味性への実感を強めていったのでしょう。結局、生は死であり、死は生なのです。どちらかが揺らぐと、もう片方も揺らぎます。よく生きるにはよく死を意識し、よく死ぬにはよく生きねばなりません。主人公は幼少期に死に絶望してしまってから、生に絶望し始めていたのです

 

冒頭でウィリアムにとって「死」はより良き生を完成させるものと書きました。ウィリアムは小説が認められなかったことを引き金にして、生に見切りをつけます。あとは、生を完成させるのみ。この辺が映画本編で描かれたウィリアムの死生観なのだと思います。生と死は別々にあるものではなく、同時に存在していて連動してる。実存哲学を読んでる人が考えそうなことですねぇ。

 

 さて、ウィリアムは特別な存在になることで無意味で理不尽な死を超克しようともがきましたが、ついにそれは叶わず、無意味で理不尽な生=平凡な生に終止符を打とうと決意しました。自殺という物語性ある死をもって、平凡な生を特別な生に変換しようとしたのでしょう。死は無意味で理不尽という事実を覆す術がそれしかなかったのです。小説家で大成していたらその生は特別なものになっていたので、「小説が売れなかったから自殺を決意した」というのは表面的には正しい解釈といえます。 (もっとも小説家として大成していても、同様に平凡な生だと絶望して自殺を試みる可能性は大いにあります。いえきっとそうなっていたでしょうね。結局、根本的にベクトルが違うんです。)

 

このように、彼にとって生と死はセットなので、これから自殺するというのに「死ぬ前にやり残したこと」に異常に執着するのです。そして、レスリーからどんな暗殺が良いかと聞かれたときにも、トラックに轢かれそうになっている子供を助けて死ぬ「英雄死」のプランに惹かれたのです。…プランというのは、死に方カタログがあるのです。絞殺や刺殺、銃殺などに加え、豊富なシチュエーションから選ぶことが出来るんですよ、なんか嫌ですね。結局、予算的な都合で一番オーソドックスな遠距離からの狙撃というプランを選んだわけですが、彼が本当に望んでいたのは「英雄死」のような物語性のある死でした。

 

以上が、ピアノが落ちた日に彼が何を思ったかの僕なりの答えです。そして、ピアノが落ちた日から彼が何を思ってきたかの推察です。

 

 

彼の未練とは何なのか

なんか長くなりましたね…。この連載記事はもっとコンパクトにやっていくつもりなんですが。まぁその時々のテンションで書きます。では、いよいよ結論に移っていきたいと思います。

 

ここまで、「彼は本当に死にたいのか」「彼は何故死にたいのか」の二点について話してきました。そして、彼は自分の存在意義について悩み、平凡な生を特別にせんがため死ぬのだ。しかし、未練がある。このまま死んでも本当に自分の望む死(生)が得られるのかという疑問があったのだ。というように考察してきました。何か足りないような気がする、ということですね。そして、その未練とは何なのか。ウィリアム自身、実は気付いていますよね、初めから。

 

ヒントは「英雄死」に惹かれるシーンです。彼は恍惚と妄想しますが、死に際に美人ナースの腕に抱かれて―なんて言っちゃいます。ソレですよ、ソレ。

 

僕も完璧なる実存死を達成するには、あるいはより良き生を全うするにはソレが必要だと思うんです。つまり、です。はい、作品の基本プロットに立ち返ってきましたね。本作は二組のカップルの物語です。主題はそこにあります。ドタバタ逃亡劇はその結節点であり、舞台設定のひとつでしかありません。

 

この社会でちゃんと生きるには正常である必要があります。つまり、平凡を認める必要があります。その上でより良く生きるには特別を手に入れたいと思うものです。

正常から弾き出された人は早急に正常を取り戻さなければ、最悪の場合、死に至ります(多くは自殺です)。しかし、それにはもともと正常である人が正常であるために費やすエネルギーよりも遥かに多くのエネルギーを要します。ぶっちゃけ無理です。

 

ややっこしい。その辺全部まとめて茶々っと解決する方法はないものか。

あるんです。それこそがです。愛は究極的に根源的な「物語」です。

 

愛はありふれた平凡であり、かけがえのない特別でもあります。平凡(正常)と特別を兼ね備えるもの、それが愛なのです。

 

ではここで最後のネタバレ!(結末部分)

 

 

 

ウィリアムとレスリーは和解し、一件落着します(この辺は主題を考えるうえで重要ではないので割愛します。各々本編を観てください)。そして、ウィリアムはエリーとの平穏な日常を手に入れます。本当に生きていて良かった。エリーとの愛情に平凡(正常)と特別の両方を満たされたウィリアムは幸せでいっぱいです。こうして生きる意味を見出したウィリアムと、彼に生きる意味を与えたエリーのふたりを映しながら、本作は終幕します。となると思いますか?思い出してください。予告PVの最期のフレーズを。「驚きの結末」

 

(※余談ですが、PVで「驚きの結末!」とか「ラスト1秒ですべてが覆る!」とか言うのやめてほしいですよね。これこそ最大のネタバレじゃないかと思わないですか。僕はネタバレとかあまり気にしないんですが、これはどうなんだろといつも思っています。)

 

そんなある日、ふたりはいちゃいちゃしながら歩いていました。すると、子供が道に飛び出し、そこへ車が猛スピードで突っ込んできます。それを見たウィリアムは走り出し…。子供を庇って、車に轢かれてしまいました。子供は無事。しかし、ウィリアムは血を流し…エリーの腕に抱かれています。その一部始終を目撃していた通行人たちが拍手をします。そして、ウィリアムは最後に「完璧だ」とこぼし、徐々にズームアウト、終幕します。

 

ここに完璧なる実存死が完成しました。彼はどこかで無意識的に感じていた未練、何か足りないという感覚を、エリーとの愛に見出しました。その瞬間、彼は不死身ではなくなったのです。つまり、無意識的に死を避けてい心理が無くなったのです。最後のシーンが自殺だったのか事故だったのかそれは分かりません。しかし、ウィリアムが心から良き生を生き、良き死に死んでいったことを疑う余地はありません。まぁ皮肉なことですね、自殺を試みていたときはなかなか死ねず、自殺をやめた途端死んでしまったのですから。つまり、(良き)死への欲求が彼を生かしており、それがなくなったから彼は死んだというようにも考えられますよね。そういう意味では、最後の死は必然だったと。

 

さて、ここでひとつ気付くことがあります。ヒロイン・エリーの役割です。役割というのは、制作側が彼女に物語上どういう役割を与えたかということです。視聴者は、ウィリアムに自殺をやめさせ、生きたいと思わせるための役割だと思いました。しかし、それは少しだけ違いました。ウィリアムの完璧なる実存死に最後のピースをはめてあげること。これこそが本作がエリーに与えられた本当の役割だったのではないでしょうか。

 

完璧なる実存死に足りないもの、それはでした。だから「完璧だ」という台詞でウィリアムは死んでいきます。しかし、その死は物語序盤の自殺とは似て非なるものです。それは結果だけではありません。ウィリアムがもし2000ポンドより多くのお金を持っていて、「英雄死」のプランを選んでいたとしても、そこには中身が伴っておらず、とても良き死とは言えなかったでしょう。なぜなら、より良く 生きようとしていなかったからです。これは冒頭でも指摘しました。しかし、ラストのウィリアムはより良く生きようとしています。だから、彼の死は良き死でした。

 

当然自殺は良くないと思います。当然です。自殺は好きじゃありません。当然です。でも、だから死について考えなくても良いということにはなりません。むしろ、死についてしっかりと考えるべきです。良き死には良き生が、良き生には良き死が訪れるのですから。生きるとは死ぬことです。死ぬとは生きることです。よりよく生きましょうとりあえずそれが私たちがより良く死ぬために出来ることです

 

最後に。少しだけレスリーについても触れておきましょう。ウィリアム=存在意義を見出せないことに悩む人物でした。それに対して、暗殺者であるということに存在意義を見出しているレスリーは、ウィリアムとまるで正反対のように思えますよね。でも、違うんです。とても良く似ている。というのが、レスリー暗殺者で無くなったら自分はどうなるのかという不安と常に戦っていたからです。それ以外に自分の存在を見つけ出せないでいる人物なのです。本作はそれぞれ存在を見失っている(実存が揺らいでいる)ふたりの主人公が、自分を見つけだす物語だと言い換えることが出来るでしょう。

 

だから、本作はハッピーエンドです。ふたりとも実存の在処を探し、そして、見事に見つけ出したのですから。

 

レスリーも妻・ペニーとの間に自らの実存を見つけだしていきます。それがどんなものか気になる方はぜひ劇場に。ぜひ劇場に行って、自らの実存を探してみてくださいな。

 

 

以上。それでは老いぼれ暗殺者・レスリーの決め台詞で本稿を締めたいと思います。

Have a nice death!

(良き死を!)

 

 

 (本編映像ーロングPV)