Wild Journey

良き価値を取り戻すための荒旅

生き様と継承の物語 『El Japón(エルハポン) ーイスパニアのサムライー』論

『El Japón(エルハポン ) ーイスパニアのサムライー』を観劇してきたのでご紹介します。

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(初日舞台映像)

スペイン南部の町コリア・デル・リオに「サムライの末裔」を自認する「ハポン(日本)」姓の人々がいる。なぜ遠い異国の地に日本の侍の伝説が残ったのか……。慶長遣欧使節団として派遣された仙台藩士を主人公に、その侍らしい心情や異文化との出会いを色濃く描きあげる、ヒロイックで快活な娯楽作品。
慶長18年、仙台藩が派遣した慶長遣欧使節団の中に、夢想願流剣術の名手・蒲田治道の姿があった。約一年の航海を経て使節団は目的地のスペイン(イスパニア)に到着するが、国王フェリペ3世との交渉が膠着し、港町セビリアの郊外にあるコリア・デル・リオで無為な日々を過ごすこととなる。ある時、奴隷として農場に売られ脱走した日本人少女を助け出した治道は、匿う場所を探して宿屋を営む女性カタリナと知り合う。近隣の大農場主から邪な欲望を抱かれながら、どんな脅しにも屈しないカタリナの凜とした姿に、治道はかつて心惹かれた女性の面影を見出していく。やがて任務を果たした使節団は帰国することとなるが、出航の迫る中、治道のもとにカタリナが攫われたとの報せが入り……。(公式サイト:https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2019/eljapon/index.html) 

 

 

はじめに

 

今回は、宝塚宙組公演『El Japón(エル ハポン) -イスパニアのサムライ-』(以下、エルハポン )についてご紹介します。第1回目で『神々の土地』をご紹介して以来の宝塚ですね。別に宙組推しという訳ではないのですが、何周か回って宙組で被りました。追々、過去作などもご紹介したいとも思いますが、今回はコレです。

僕の観測範囲では、評判はあまり芳しくはない?というように感じます。かといって、宝塚は何がウケて、何がウケないのかいまいちよく分からないところがあります。例えば『エリザベート』なんかは「死の擬人化」によって実存を志向する作品ですが、その哲学的意図に共感しているヅカファンはどれほどいるでしょうか。そう考えると『エリザベート』がここまで熱烈な支持を勝ち得ている要因は何なんだろうか。と、しばしば考えることがあります。

つまり、宝塚では一概に「大衆娯楽」がウケるとは限らないのです。時に強烈な「芸術作品」がファンを沸かせることがあります。そして、そこが宝塚歌劇の魅力のひとつでもあると思っています。

では本作、エルハポンはどうでしょうか。本作は「大衆娯楽」的な作品です。しかも、よく考えられた作品だと感じました。これがウケないとなると何がウケるのか、もしかすると僕の観測範囲が極端なサンプルを採集してしまっただけかもしれませんが。


前置きが長くなりました。以下、感想です。ネタバレ含みます。

 

 

テーマ、メインストーリー、サブストーリー


本作の表面上のテーマは「ハポンの謎」ですよね。冒頭で謎が提起されて、ラストシーンで謎が解ける。何故、スペインにハポン姓の人々(侍の末裔)がいるのか。その謎を一本の軸にしながら、メインストーリーとサブストーリーが展開されていきます。

メインストーリーは当然、治道とカタリナの恋です。主人公・蒲田治道と、ヒロイン・カタリナの恋。そして、カタリナへの想いと共に剣を握る理由=人を生かす剣の実践(と回復)を描いていきます。

治道は、かつての想いびとである藤乃を失った悲しみから、または主君・伊達政宗を暗殺しようとした藤九郎を斬ることが出来なかったケジメとして、剣を置きます。(藤九郎は伊達政宗を仇として暗殺未遂に及びます)

藤乃と藤九郎は姉弟でしたかね?観劇から少し経っていて、記憶が朧げですが、とりあえず同じ「家」の者です。その「家」にかつて仕えていた治道でしたが、天下統一の完成を目前に戦に敗北し、その戦火で藤乃も死んでしまいます。治道はこの戦に参加できず、藤乃を助けることが出来なかったということで、大変後悔しているというところです。

また、藤九郎は、治道が戦に参加出来なかった理由を知らないので、「この裏切り者め!」という感じで治道を見ています。しかし、かつては夢想願流剣術の師匠と弟子という関係でした。というのがプロローグですね。

ここから、治道は主君(伊達政宗)に仇なした藤九郎を斬ることが出来ず、その助命嘆願までしたということで、(伊達政宗公の温情?もあって)藤九郎共々、スペインに通商交渉のため出航しようとしていた遣欧使節団に随伴せよ!という命がくだります。

※あ、今更ですが、本作についてネタバレはしません(すると言いましたが、あれは嘘です!)。ここでお伝えするのは本筋を外した粗筋だとお考えください(それをネタバレという人も居るので注意書きしました)。こんくらい言うてもかまへんやろという範囲でやっていきます。


そして、サブストーリーは治道と藤九郎の和解です。まぁ他にも色々とありますが、最も重要なサブストーリーはこれです。藤九郎への剣を握る理由の継承を描くことで、本作のテーマへと接続していく。それが重要なのです。

そう、本作は治道と藤九郎、この二人こそが、現在コリア・デル・リオで暮らすハポン姓の人たちの最初の二人なのだということを継承というキーワードでもって描いているのです。

え、ネタバレ?いや分かるでしょ!何故、ハポンがスペインで云々というテーマで、主人公周りの人たちがそうでした!となるのは自明です。これはネタバレではありませんよ!(弁明)

さて、本作はメインストーリーとサブストーリーが密接に絡み合ってひとつの大きな物語(テーマ)を浮かび上がらせていく。とてもシンプルですが、テーマの一貫性と伏線の回収(謎解き)が気持ちのいい作品でした。

というのが、ざっくりとした作品紹介と、感想でございます。

 


本当のテーマ


ハポンの謎」が嘘のテーマとは申しません。しかし、本作はミステリーでも、謎解きの快感を与えることを目的にした物語でもありません。とても宝塚的な恋の物語であり、友情の物語であり、継承の物語であり、男気の物語です。

ここで少し余談ですが、「宝塚的」というときに、他は分かるけど「継承の物語」って何よ?と思うかもしれません。ですが、そんなに難しいことではありません。だって、宝塚は役者に「学年」があり、音楽学校の延長線上で関係性が持続します。そして、やがて卒業していきます。この構造的特徴がより次世代、下級生への継承という点を強調します。上級生から下級生への指導、新人公演では上級生の役を下級生が演じます。また、宝塚ではトップスター制度(トップスターと相手役、番手)を作劇に組み込まなければならない制約があります。外部作品よりも色濃く役者のポジションや立ち位置、学年などが脚本に影響を与えます。つまり、例えばサヨナラ公演などでは、トップスターから次期トップスターへの継承が、作劇上のモチーフとして必ずと言って良いほど描かれます。というように作劇と作劇外が微妙に混ざり合っているという特徴があります。

よって、宝塚歌劇の最も重要な物語的な核は男気継承だと思っています。男気とは“生き様”です。つまり、宝塚とは男の生き様(より良い生)を継承せんという物語を100年以上の昔から描き続けてきた劇団だということができます。

※ジャンプの「友情・努力・勝利」風に言えば、どうですかね。あれは編集長談によると「努力」は建て前らしく、「健康」が取って代わるのではないかということらしいのですが。なので実質4つということで考えると「美しい恋・男気の生き様・物語の継承」を三本柱に「時々、友情」ということでどうでしょう!共感いただけた方は是非とも流行らせてください。

だからカッコイイんです!彼らビジュアルや、立ち居振る舞いだけじゃないんですよ。舞台上で表現される生き様がこの上なくカッコイイんです。

蛇足が続きますが、僕が宝塚を好きなのはきっとそういうところに抑えがたい魅力を感じているからなのだと思います。物語はその消費者(読者、視聴者)に「生き方」を教えてくれるものです。究極的にはそこに帰結するはずです。何故生きるのか、どのように生きるのか。それを時に生が最も輝いている瞬間を切り取ることで、はたまた全てをひっくるめた一生を描くことで、私たちはそれを疑似体験し、消化し、昇華し、哲学し、時には数学していくのです。


さて、かなり脱線しましたので、話を軌道に戻しますと、本作はそんな男気(生き様)と継承がしっかりと描かれている物語ですよね、ということが言えると思います。

つまり、本当のテーマは剣を握る理由です。そして、剣を握る理由とは、生きる理由のことです。生きる理由とは…つまり生き様のことですよね。いちいち言い換える必要はないですけど。

本作は夢想願流剣術(実在するみたいですね。本公演の殺陣がめちゃくちゃだと詳しい友人が言っていましたが、もしかするとこの流派特有の何かがあるのかもしれません)の会得者・治道が、人を生かす剣という、まぁその名の通り夢想的なことをおっしゃるんですよね。9条バリア!と言うが如く、お花畑なんですが、しかしそれで何が悪いのか。その生き様を貫けるなら、そしてちゃんと責任を負うのであれば結構じゃないか。かつて墨子(墨翟)という中国の思想家がいましたが、彼は友愛を唱え、戦争に反対していました。まぁ戦国時代に大層なお花畑ですが、しかし彼は戦争を仕掛ける国から戦争を仕掛けられた国を無償で守り切る籠城のスペシャリストであり、実践家であったのです。夢想は実践を通して無双になります(上手いこと言うたった!)。また脱線ですね。話を戻しましょう。

治道は、過去に藤乃を守れなかったということで剣を握る理由=生きる理由を失ってしまいます。藤九郎もまた復讐に囚われることによって、剣の道=生きる目的を見失っています。カタリナもずっと喪服を着続けているので、生きる意味を見失っていると言えますよね。アレハンドロもまた生き方を探している人だと言えます。つまり、貴族の枠に収まってお利口に生きていくのは嫌だと生き方を模索していますよね(だから、生きる理由を見つけようともがいていく治道と友情を育むのでしょう)。

つまり、何度も言いますが、この物語は彼らが剣を握る理由を見つける物語です。メインの登場人物は「生きる理由」を見失っている(もしくは探しあぐねている)という点でみんな一致しています。エリアスや、奴隷の日本人少女たちもそうだと言えます。エリアスもアレハンドロと同様に貴族特有の息苦しさを感じていますし、もちろん奴隷は生き様を発揮できません。

治道が再び剣を握る理由(生き様)を見つけ、藤九郎が剣を握り直し、カタリナが剣を握る決心をし、日本人女性の奴隷たちさえも剣を握っていく。そして「自由」を迫害する「権力」に戦いを挑んでいく。

この物語は彼ら登場人物が「剣を握る理由」を見つけた時に実質終わりです。

当然、彼らはその結果を引き受けるところまでに責任を持たなければいけません。しかし、カタリナが喪服を脱いで剣を握り、奴隷たちが戦う決心をして剣を握り、治道と藤九郎が故郷を捨ててまで舞い戻って剣を握った時点で、もう終わりなんです。剣を握ることには、それ自体で必然的に結果を引き受けさせられるからです。

だから、剣を握った時点で、物語上やりたいことは全部やったということになるんです。もうやりたいことはやりきったので、最後はアレハンドロがまくし立てるように締めくくります。ラストが雑だったという感想も多く聞かれましたが、僕はそうは思いません。解決編はあのくらいご都合主義コメディで良いんですよね。オマケだからパパッと終わらせましょうということで。だって、何故「ハポンが生まれたのか」の物語なので。剣を握る理由を見つけた治道と藤九郎、あるいはその周りの人たちこそがそのルーツなのだ!が本作の結末です。

この物語はどういう物語なのか。何をテーマにしているのか。で当然どこに力点を置くかが変わってきます。そういう意味で本作はちょうど良い塩梅だったんじゃないかと思います。

 

何が彼らに剣を握らせたのか。それはぜひ劇場で確かめてみて欲しいと思います(もしくは円盤を買いましょう!あるいはスカイステージに…)。

治道、藤九郎、カタリナ、奴隷の日本人少女たち。それぞれ理由は異なります。しかし、ほとんど同じですよね。彼らは「生き様」を見つけたのです。

 

 

さいごに


こう見ると、ストーリーラインは一本軸でブレも無く、サブストーリーもしっかりと中心テーマへと収束していく。この構造そのものが、カタルシスになるので、この作品はわりと好きな作品のひとつになりました。要素要素は誰でも思いつきそうなことの寄せ集めですが、それがよくひとつにまとまっているという印象です。

ただ、残念な点もいくつかありました。大野先生は恐らく詰め込み癖があるんじゃなかろうか。というのは前作の信長から感じていたことでもあります。コンセプト(ハポンの謎解き)とテーマ(剣を握る理由、生き様)はシンプルで分かりやすいですが、登場人物に愛着を持ち過ぎているのか、余計なキャラクターが多い。

特にヒロイン、準ヒロインに当たるキャラクターが三人も居ます。また、カタリナに恋をする理由と、藤乃を割り切る理由などがもう少し欲しかったなと思います。治道もまた喪服を脱げなかった人のはずですし、「どんな脅しにも屈しないカタリナの凜とした姿に、治道はかつて心惹かれた女性の面影を見出していく」という部分が具体的に伝わってこなかった気がします。

では、どうすれば良かったのか。なんてプロの脚本に手を付けようなんて無粋な真似はしませんが、少しだけ。やはり藤乃とカタリナはもっと関連付けて描いた方が良かったと思います。藤乃とカタリナの共通点、カタリナにかつての想いびとの面影を感じさせる要素が欲しかった。そうすることでカタリナに恋をする理由に説得力を持たせられるし、剣を握る理由にダイレクトに繋がっていけると思うのです。

また、余計なキャラクターが多い割に、それぞれの設定が薄いとも言えます。メインキャラクターは良いけれど、例えば奴隷の日本人少女たちにはそれぞれ方言を割り当てられています。それをするならもうひと押し、宿泊所の手伝いを始める場面でも、私は料理!私は掃除!とかにするだけで、脇は脇でもそれぞれに深みを持たせるのに一役買えたのではないでしょうか。出自も武士の出、農民の出、商人の出、とかひと言でも自己紹介させたりすると、出身地の違い(方言の設定)と相乗効果でキャラの肉付けが出来たと思います。彼女たちも剣を握る理由(生きる目的)を得ていって、やがて剣を握るんだから。彼女たちも主人公らに影響を受けながら「ただ生き延びること」から「生き様を見つけること」へと変わっていくんだから。

というのは個人的な感想です。素晴らしい作品だったので、いちゃもんはこのくらいにしておきます。あとは疑問点なのですが…

ラストシーンはどうなんでしょう。いくら本筋ではないとは言え、明らかに治道しか解決してへんやんけ!と思ってしまいました(在留資格的な問題)。藤九郎や奴隷女性たちのその後も回収して欲しかった。普通に考えれば改宗すれば良いと思われる(治道にも同じことが言えるが、それはアレハンドロのお茶目な策謀ということで)。一回しか観てないので見落としている、誤解しているかもしれませんが。

 

ということで、今回はこれくらいで。真風さんとキキのコンビは良いですね。元星組コンビということで、宙組に新しい風を吹き込んでいる気がします。