Wild Journey

良き価値を取り戻すための荒旅

死に至れない病 『宝石の国』論

※本稿は、同人誌版『Wild Journey』に掲載された文章を少しだけ「整形」したものです。かなり荒っぽい文で、しかもダラダラ長い。いわゆる「あまり良くない文章」ですが、かつて荒旅で熱く議論を交わしたことを詰め込んでいるつもりです。『宝石の国』という傑作漫画を、近代主義(Modernism)の問題に引っかけて語っております。我慢して読んでください←

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私たちは整形されている

私たちは整形されている。執刀医は国家である。それは全ての国民に執行される。鏡を見て、他の人の顔を見て、そして気付いてほしい。私たちは整形顔である。そうすると、整形前の自分本来の顔を知りたくなってくるだろう。しかし、整形は不可逆的である。元に戻ることは出来ない。それでも己の「原形」を知りたいと思うのであれば…ひとつの方法がある。学問だ。あるいは研究だ。もしくは探究である。とにかく「本当のことが知りたい」と願い行動するならば、それはきっと己の原形を知る手助けになってくれる。

 

執刀医・国家が私たちを整形するのであれば、その術式はどんなだろうか。どんな麻酔を打ち、どんなメスを入れるのだろう。メスはその時の為政者によって異なった愛用のものがあるだろうし、なかなか特定は難しい。しかし、麻酔の方は簡単である。文化だ。これは最も厄介で、最も優秀な麻酔なのである。文化とは共同体の空気である。空気が麻酔であるのなら、私たちはいつの間にか眠りこけている可能性がある。あるいはその空気が毒されていれば一気にパンデミックが拡がる危険性もある。空気とは必要不可欠である分、とても厄介なのだ。

 

 分かったような事を言って、まるで本筋が見えてこない。しかし、これは必要な議論なのである。『宝石の国』という作品を読むうえで、「整形」と「空気」はキーワードだ。と思うのだ。それでは始めよう。本稿はアニメ化された部分を中心とした『宝石の国』の論考である。

 

 

私たちは制服を着ている

 私たちは制服を着ている。ご存知だろうか。我が国は制服大国である。街中にこれほど制服があふれる国は他にはない。そう言えば…宝石たちも制服を着ている。白いシャツに黒い服と黒いネクタイ、そして、黒いショートパンツ。色とりどりの宝石たちは皆、同じ白黒の服を身に纏っている。そして、原作者の市川春子によると、宝石たちが着ているのは喪服なのだという。しかし、そこに本当の意味での真剣さはない。なぜなら、宝石たちは死なないからである。死なないのに喪服を着ているとは何とも滑稽な話である。

 ここで、まず最初に本作のあらすじをざっくりと説明しておきたいと思う。本作は擬人化された宝石たちの物語である。主人公はフォスフォフィライト(フォス)。硬度三半と脆く、最年少の三百歳である。彼らは宝石なので死ぬことがない。それは寿命がないという意味でもあるが、どんなに割れても元に戻せるのである。フォスは割れやすい宝石なので、しょっちゅう割れている。しかし、首がもげようが、全身が粉砕しようが血すら出ることはない。従来の擬人化作品とは違って人間としての特徴はほとんどその外見だけである。そして、彼らには性別すらない。皆、女性のような見た目をしているが一人称は「僕」「私」「俺」などバラバラで、お互いを「彼」と呼ぶ。さらに「宝石たちは全員、プロポーションは基本同じ」という設定がある。彼らは実に多種多様な性質を持ち、色彩豊かなビジュアルをしているが基本的に似たような見た目になるように造られている。そう、彼らは整形されているのである。原作第7巻のある会話を引用したい。第7巻はアニメ化されていない話なので、軽くネタバレになることをご容赦いただきたい。以下はフォスがウェントリコスス王の子孫ウァリエガツスと出会った時の会話である。

ウァリ「(宝石たちの国は)不死の美形の国とも伝わっております。確かにみなさま、粒ぞろいの美しさ」

フォス「ああ、それは先生が生まれた僕らを少し削って調整しているんだ。性質に差がある分、せめて見た目だけは平等になるように…」

ウァリ「優しい方ですね」

フォス「どうかな

宝石たちには彼らを束ねる先生がいる。その名を金剛という。金剛先生は宝石たちにそれぞれの個性や能力に応じて仕事を与え、彼らを守り導いている。「守り」というのは、彼らには天敵がいる。定期的に空の黒点からやってくる月人と呼ばれる存在だ。月人は宝石が大好きで、宝石たちを装飾品にするために攫いに来る。金剛先生と宝石たちは自らの安全を守るため月人たちとの戦いの日々を送っている。

その金剛先生は、宝石たちが生まれるとその顔を削り整えているのだという。文字通り整形しているのだ。しかも、その理由が「せめて見た目だけは平等になるように…」である。とても違和感を覚える理由だ。まるで美しいものにしか価値がないと言われているようである。あるいはこれが美しいのだと美しさの定義を勝手に決められているようでもある。

「優しい方ですね」と返すウァリエガツスに、フォスははっきりと返せない。以前のフォスであれば「ま、僕が一番りりしいけどね!」などとおどけて返していただろう。というのは物語序盤のフォスは天真爛漫なお調子者で、何も出来ない故にひとりだけ仕事をもらえていないにも関わらず、自信だけはあるようなキャラクターだった。しかし、様々なトラブルに巻き込まれていくうちに(ほとんど彼自身が引き起こしたものではあるが…)、両足部分の宝石を失ってしまう。そして、失くした宝石の代わりにアゲート(色々な石が層状になった、一概に何とは言えない様々な混在。フォスの場合は貝殻が変化したもの)を代用した。するとなぜか飛躍的に身体能力が向上し、次第に月人との戦いに参加するようになっていく。その後、何度も身体を欠損紛失し、代替の異物を自身に加えていくようになる。その度にフォスは能力を覚醒し、強く賢くなっていく。しかし、それは自身の宝石部分を失うとその割合分の記憶も喪失することとなる諸刃の剣であった。

また、フォスはいくつかの出来事を通して金剛先生と月人の関係を疑うようになっていく。原作第4巻、アニメでは終盤のフォスとシンシャの会話を引用したい。

フォス 「僕は先生がなにか隠し事をしている気がする」

シンシャ「月人との関係か」

フォス 「知ってたのか!ならどうして」

シンシャ「みんな知ってる。正確には全員が勘づいているだけで、本当のことは誰も知らない。暗黙のうちにそれがどのような間違いでも、先生を信じると決めたわけだ」

―中略―

シンシャ「おまえはどうする?」

フォス (僕は本当のことが知りたい)

 

これは本作屈指の名場面だ。「本当のことが知りたい」という感情は本作で最も重要なテーマであり、最も鮮烈なメッセージである。本稿で関心を持っていただけた未見の読者がいるならば、ぜひともこの場面を読んで観て大いに感動していただきたい。

さて、ここまでで二つの会話を引用したことには意味がある。フォスの変化について、もしくはフォスが宝石たちの暗黙了解から抜け出したことについてと言い換えた方が良いだろう。このことについて、ひとつの解説を試みたいと思う。フォスはなぜ二、三十人もいる宝石たちが皆、先生を疑わないという暗黙了解に収束しているにも関わらず、一人だけ「本当のことが知りたい」と思うに至ったのか。これを考えずには本作を語れないだろう。本稿は大枠ではずっとこのことについて考えていくことになる。

つまり、私はこう思うのだ。宝石たちは整形されている。それ故に本当のことが知りたいとは思わない、と。そもそも宝石を擬人化するという作劇上のアイデアについて、そこに何か比喩的な意図が含まれているのだとしたら、私は次のように考える。「長い時をかけ規則的に配列し結晶」となった彼ら宝石は、私たち近代人のメタファではないかという推論だ。

近代(Modern)は模型(Model)の試みであると表現すればいくらか想像できるのではないかと思う。近代人は潔癖である。というのも、模型化がその行動原理にあり、合理化と発展を目指すパラダイムに支配されているからである。そこでは複雑性やイレギュラーは排除される。規則的配列を持つ宝石たちも潔癖だ。例えば、ダイヤモンドは草を食べるカタツムリ(フォスと思い込んでいる)に対して「だめよ!草なんか食べちゃ野蛮よ!中が汚れちゃう!」と言ったりしている。そこらへんの草を食べるヤツに草なんか食べるな!と言うのは自然なことだが、中が汚れるという言い方には少しひっかかる。そこには異物への拒否感や、キレイさへの執着を感じるからだ。こうした点も踏まえて、宝石と近代人はよく似ていると思う。よって、本作を近代人(近代的大衆人)に向けた物語だと捉えることも可能なのではないかと思うのである。

それでは、本項のまとめとして、宝石たちが近代人なるものの性質を持つ理由について、より詳しく見ていきたいと思う。その大きな要因としては、金剛先生の存在があると考えられる。金剛先生によって宝石たちは整形されている。もっとも、金剛先生が黒幕である、つまり悪いヤツであるとは考えていない。金剛先生は真に宝石たちのことを考えている。整形しているという自覚もおそらくないだろう。しかし、結果として宝石たちはその規則的配列という性質によるところも大きいだろうが、それとは別に金剛先生によって整形されているのである。金剛先生は続々と生まれてくる宝石たちを束ねて、外敵に対処するために共同体を形成する必要があった。親であり、先生であることを強いられた金剛先生は彼なりの信念で宝石たちを導こうとしたのだろう。そして、彼も整形された存在=合理的に造られた存在であり、その行動原理に従って最善を選択しようとしているということも指摘できる。

さて、彼が宝石たちに施している術式として、具体的には次の三つを挙げることが出来る。まずは先述したように顔の整形そのものだ。そして次に、彼らに同じ服(制服)を着せていることだ。さらに、彼らに仕事を与えていることである。

これらは些細なことにも思えるが、実は重要な設定ではないかと思える。例えば、制服には集団からの個性の消失、同質化の効果があると言われている。もちろんこれは強弱の問題だと考えられるが、自尊心が暴走しがちな学生は決められた学生服に対して、ダサい柄Tシャツやスカート丈などで抵抗を試みたりする。しかし、その程度が限界であり、やがては集団の規律へと収束させられる。それでも自尊心を発散したい学生はどうしたら良いものか。それをカバーするのが部活だったり、クラス活動であったりする。それっぽい理由をつけて役割を与えさえすれば、精神的な成熟途上にある彼らを効率的に管理できるのである。自由を与えすぎず、かといって拘束もしすぎない。学校教育は多かれ少なかれそういう側面がある。つまり、自尊心の暴走を緩やかに統率し、一定の枠外へとはみ出してしまわないようにするのが教育だ。そうして集団の空気が醸成されていく。私たちは自分の個性を確かに感じながらも、緩やかな統率に対して無自覚であると言える。みんな同じような顔をするようになる。現代教育は特にその傾向が強い。ほとんどが受験のために合理化された教育であり、だいたいの道徳教育なるもの、地域学習なるものはちゃんとやっていますという方便のために存在しているようなものだ。画一的な現代教育は複雑性を排除し、イレギュラーを認めない姿勢を隠そうともしない。そうして量産されていく近代的大衆人は、まるで本作の宝石たちそのものである。

宝石たちを見てみると、性格も性質も実に多種多様で個性にあふれている。しかし、もっとも大切なところの考えはみんな驚くほどに一様である。自分たちの指導者である金剛先生が敵である月人と通じている可能性を認識していながら、その疑惑をそもそもないものとして処理してしまう。そして「本当のこと」の追求を放棄し、数千年もの間まったく変わらない戦いの日々に身を投じてきたのである。抜本的解決も、真実の追求も、月人に攫われた仲間の奪還も、彼らは真剣に取り組んではいない。

少し話題を変えよう。本作では、彼ら宝石の起源として次のようなことが語られる。かつて「にんげん」という有機生物が滅んだとき、それは長い年月をかけて海を漂い、やがてに分かたれた。魂は月人に、肉はカタツムリ(?)に、そして骨は宝石たちになったという。つまり、この三者には「人間性」が分配されていると考えられる。

それでは、規則的配列という身体的特徴が与えられている宝石たちに分配された人間性とは何だろうか。先述した通り、それは近代人としての性質だと考える。個性がありながらも画一的、その結果として数千年間何も変わらない日常をそこに作り出した。そして、彼らは整形され制服を着て与えられた仕事に勤しんでいる。そこには専門人としての側面も見て取れる。専門人とは「総合人」の対義語である。専門人は物事の全貌を見渡すことなく、その一面を以って世界と接していく人々である。世界とは様々なものの総合であるにも関わらず。宝石たちも完全な分業化の下、自分の役割だけに意識を費やしている。だからこそ、総合的なこと=本当のことに興味関心が向かないのではないだろうか。

以上の点から金剛先生の教育方針を垣間見ることが出来る。金剛先生は宝石たちが生まれるとまず教育をする。だからこそ、先生と呼ばれているのだ。その教育内容の詳細は定かではないが、整形と制服から考えるに、「性質に差がある分、せめて見た目だけは平等に」というような教育方針だろう。ただでさえ規則的配列を持つ宝石たちは金剛先生の手でさらに画一的に整えられていったのだ。

それが金剛先生のメスだとしたら、麻酔も存在する。麻酔は既に述べているように、卒業後に彼らが与えられる仕事である。彼らの仕事はその個性や性質に応じて金剛先生が決めている。仕事を与えられてからは専門人としてその仕事を全うする。

ルチルは「過酷で役立つ仕事は自分の存在に疑問を抱かないためのよく効く麻酔です。解決を先延ばしにしている間に死ぬこともできない私たちは代案が見つかるまで耐えるしかありません」と言った。これは夜に閉じこもるシンシャについてフォスに語っている場面だが、シンシャだけに向けて言っている言葉ではないだろう。

彼らは分業化された仕事を個々に専門人として与えられることによって、そしてその仕事に没頭することによって、その枠外のこと、例えば…自分の存在を問うことを忘れ、世界について思考することを忘れ、ただただ仕事を熟すだけの受動的存在になっている。月人の襲来という危機に対して、それぞれが専門的に対処する。その繰り返しが彼らから能動的な思考を奪っていったのだ。

また、「にんげん」の分たれたひとつであり、フォスと偶然出会ったカタツムリ(ウミウシ?)のウェントリコスス王は、フォスに次のような話をしている。「我が一族は(中略)月の甘い水と砂で肥大化し飼われるうちに思考を奪われた」と。しかし、これもウェントリコスス王の一族に限った話ではない。「月の甘い水と砂」が「大好きな金剛先生と与えられた仕事(専門的役割)」に置き換えられただけに過ぎない。思考停止、思考の画一化という整形にあたって、使われたメスがどちらであったかの違いでしかない。

宝石たちは「金剛先生のことが大好きである」ことと、「金剛先生から仕事を与えてもらった」ことで、金剛先生を中心とした優しい世界(甘い水)において、金剛先生に用意してもらった居場所(砂)が与えられている。そして、その優しい世界を壊してしまうことを恐れるあまり、宝石たちは「思考を奪われた」のである。

そうして醸成されたのがこの優しい世界を壊さないための暗黙了解という「空気」だ。そして、やはりそこに真剣さはない。優しい世界への逃避があるだけで、そこに真剣な(あるいは本質的な)思考は介在していないからである。さて、既読の方はご存知だろうが、ウェントリコスス王はフォスとの出会いの場面において思考を取り戻すことが出来た。どのようにして取り戻したのだろうか。それは塩水に浸かったからだった。塩水に浸かることで動物性から人間性を回復することが出来たのである。それは甘い水=塩水の対比以上に、彼らが海に住む生物だからだ。きっと帰るべきところに帰ると思考を取り戻せるのだろう。

 

 

 

私たちは宝石にされている―閑話― 

私達は宝石にされている。ここまで述べてきたように宝石たちは、私たち近代的大衆人そのものだ。私たちは整形されている。その事実に気付いたとき、私たちは初めて自分の存在に疑問を持つことが出来るのである。そして、自分の存在に疑問を感じたとき、私たちは初めて思考を取り返すことが出来る。自己存在への問い返しなき思考など、思考ごっこに過ぎない。本当のことが知りたいという欲求は、自分は何者なのかという疑問から生じるものであるからだ。自分は「優しい世界」という人格の一部ではなく、この世界に生きるたったひとりの自己であるという自覚から生じるものであるからだ。本作は「にんげん」が三分割されて生まれた宝石たちが、おそらくその過程で失って、その後々に強められていった思考の欠如から、回復しようとする物語ではないか。

しかし、私たち現実の人間も「自己存在への問い返し」や「本当のこと」など何それ美味しいの?状態である。私たちはまさしく甘い水で飼われていると言わざるを得ない。美味しいもの、甘いものにしか興味がない。そうして何者かに飼いならされていくうちに、自分の存在を見失っている。これは言うまでもなく大衆人の特徴である。私たちはまるで三分割でもされたかのように、そうして大切な何かを削り取られたかのように、欠落した生を送っている。

あるいは、私たちは社会進化論パラダイムに支配され、文明は常に一方向的に進化する、つまり変化=単線的な前進だと思い込んでいる。その背景には古代から近世は単線的に発展して近代(現代)に到達したという前提に立って、さらにはこの近代という時代を模型化して把握できるはずだという思考があるだろう。模型化という試みは、余計なものを削ぎ落としていく作業である。複雑から単純への整理であり、世界をそれで表すことが出来るはずだという驕りだ。世界とはそもそも原石それ自体であるはずなのに、いつしか加工された宝石を世界と呼ぶようになった。これは言うまでもなく近代人の特徴である。

前者が大衆人で、後者が近代人…前者がカタツムリで、後者が宝石である。そして、彼らを加工して飼っているのは月人だ。月人は死を願い救いを求めている存在で、そのためなら手段を選ばない攻撃性を持っている。この月人・カタツムリ・宝石は、「にんげん」の魂・肉・骨である。三者とも全て人間性から派生し、変化していったのである。つまり、本作は「にんげん」という存在による壮大な自問自答であると言うことも出来る。

しかし、彼らは故郷がある。月人は月、カタツムリは海、宝石は孤島。そこには住処があり、共同体があり、文化がある。文化は共同体の空気であり、麻酔だ。そこで生まれ育つ者たちは、生まれた時からそこの空気を吸っている。そこから俯瞰して自己存在を見つめ直すことなど思いもつかないことだろう。

では、空気に抗うにはどうすれば良いのだろうか。どうすれば自己存在を問い返し、本当のことを知ろうとする思考の営みのスタートラインに立てるだろうか。それは他者と出会い、対話する事である。次項ではいよいよフォスがどうやってそのスタンスを手に入れたかに迫っていき、結論へと向かっていきたい。

 

 

私たちは死に至れない病に侵されている―結論―

私達は死に至れない病に侵されている

ここで一旦これまでの議論をまとめよう。宝石たちが近代的大衆人なるものであることは以下が原因だろう。

①規則的配列という身体的特徴。整形と制服。そうしたキレイな身体からもたらされる思考の画一化。近代人的特徴。

②大好きな金剛先生との日々(甘い水)と、外敵の存在。与えられる専門職。そこから導かれる暗黙了解という空気。大衆人的特徴あるいは専門人的特徴。

宝石たちが「本当のことが知りたい」と思わない第一の要因は宝石そもそもの規則的配列=近代人的特徴、第二の要因は金剛先生による教育(制服と整形と仕事)=専門人的特徴だと述べてきた。

その結果として優しい世界に閉じこもり、真実に蓋をする大衆人的特徴が生まれてくる。また、第二の要因に「外敵の存在」と書いてあるが、実はこれも厄介な問題だったりする。外敵、つまり月人は宝石たちを攫いに来るが、攫った宝石たちを装飾品にして身に付けており、月人を倒せば僅かずつではあるが宝石を回収できる。これが宝石たちが奪還作戦の「だ」も言わない理由である。寿命の制約がない時間の無限性と、修復可能な身体は、受け身の戦闘でもやがていつかは同胞を助けることが可能だという認識を生む。実際には宝石は月において修復不可能なまでに粉砕されている(即ち宝石たちにも死がある)ということが明らかになる。

しかし、それは想像出来ないことだっただろうか。数百年間、蘇った宝石はひとりも居なかった。要するに何が言いたいのかというと、危機すらも整形されていたのである。月人たちは宝石たちが受け取る危機や絶望をちょうどいいくらいに調整していたのである。その結果、宝石たちの思考の放棄はより深まっている。真の絶望は「決断」か「諦め」を促すものになりかねないが、調整された危機や絶望はいまある認知(暗黙了解)を維持しようとする働きを促す。いまある認知を否定する要素を思考の枠外に押し出し、その誤謬を認めない。これを認知的不協和という。認知に合わない要素を思考の枠外に押し出すのであるから、望ましい認知以外には何も残らない。思考は放棄されるのである。

そして、最後にもうひとつ、本項において第三の要因を付け足したいと思う。また、これが最大の要因ではないかと考える。その要因とは…「死に至れない身体」そのものである。何度も述べてきたように、彼らには寿命もないし、どんな外傷でも致命傷にならない、どうやらその身体性に最大の要因がありそうである。

そのことに論を進めていく前に前提条件を整理していきたい。宝石たちが「本当のことが知りたい」とは思わず大衆人的停滞に甘んじる要因が①近代人的特徴 ②大衆人的・専門人的特徴=認知的不協和 ③身体的特徴(死に至れない身体)であるならば、同族であるフォスがそこから抜け出せた要因は何かという話である。そこに私は問題点と活路を見出したい。そして、ここで提示するキーワードは「他者性」だ。第三の要因、死に至る身体の話をする前にまずはこの話をしたいと思う。

 フォスは死なない。しかし、壊れやすい。ということは相対的に死に近い存在だと言うことが出来るかもしれない。しかし、それでも死ぬことはない。フォスが暗黙了解から抜け出せた要因として「壊れやすい」という特徴を挙げるには少し弱い。

では何なのか。それがフォスだけが手に入れた「他者性」である。フォスは肥大化したカタツムリに捕食されて一度貝殻の一部となってから、宝石たちの中で唯一カタツムリと話せるようになった。そこでフォスは宝石たちの中で初めて他者を獲得したのだ。宝石たちにとって宝石たちは他者ではない。それは孤島という隔絶された土地において、金剛先生という同じ親、同じ先生のもとで学び、同じ目的のために仕事をしている仲間だからである。既に何度も述べてきたように、個性は豊かだが肝心な考えは一様であるのは、同じ文化=同じ空気を吸って過ごしてきたからに他ならない。その文化(空気)しか知らないのだから、そこから脱しようもないのである。

しかし、フォスは異なる文化(空気)で過ごしてきたカタツムリという他者を得る。この他者性の獲得は、フォスを一歩だけ常識の枠外へと連れ出した。次にフォスは度重なる身体の欠損紛失で、自身の身体に次々と異物を組み入れていく。これにより規則的配列という身体的特徴は薄らいでいった。そうすると群れから抜け出したフォスは、宝石たちを新たな他者として再観察することが出来る。それまで三百年も生きてきて考えもしなかったことを考えるようになっていく。他者と出会い、異物を取り入れたからこそ、獲得した他者性でフォスは真実追求の道を歩み出したのである。

さて、ここまで散々遠回りして迂回しながら考えてきたことをビシッとまとめようと思う。本稿で考えたいこと、それはとてもシンプルで、私たちが本当に本当のことが知りたいと思うようになるにはどうすれば良いかということである。我が国を覆う数多くの危機を目の前にして、見て見ぬフリをしてそれぞれがそれぞれの優しい世界に閉じこもる、そんな現状をどうにか打開するヒントを本作に見出したからである。そして、それは即ちフォスと宝石たちの違いを考えることだと思った。宝石たちは私たちそのものだとはくり返し述べてきたし、フォスはそこから抜け出していった存在だということも述べてきた。であるならば、私たちもこの国を覆う認知的不協和(暗黙了解)から抜け出せる方法を、フォスから学び取ることが出来るのではないか、もっと言えば本作自体がそういう思考実験を内包した文学なのではないかということである。

そして、ここにやっと結論として、その本質的な問題点と活路を文字にしていきたい。

私たちは、死に至れない病に侵されている。

この一言が現代日本の抱える問題のすべてである。これはもちろんキルケゴールの『死に至る病を捩ったものである。では、ここからは本作を本書と関連付けて考える理由を説明していこう。まずは本書の内容について、その冒頭部分を主として『宝石の国』との関連性とともに解説したい。本稿では「自己存在の問い返し」という表現を用いてきたが、キルケゴールは自己について次のように定義する。少々長いが結論の核となる重要な議論なのでお付き合いいただきたい。

「人間とは精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係するところの関係である、すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものになることが含まれている、―それで自己とは単なる関係ではなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである。」

「人間は有限性と無限性との、時間的なるものと永遠的なるものとの、自由と必然との、綜合である。要するに人間とは綜合である。綜合とは二つのものの間の関係である。しかしこう考えただけでは、人間はいまだなんらの自己でもない。」

「二つのものの間の関係においては関係それ自体は否定的統一としての第三者である。それら二つのものは関係に対して関係するのであり、それも関係のなかで関係に対して関係するのである。たとえば、人間が霊なりとせられる場合、霊と肉との関係はそのような関係である。これに反して関係がそれ自体に対して関係するということになれば、この関係こそは積極的な第三者なのであり、そしてこれが自己なのである。」

「自己自身に関係するところのそのような関係、すなわち自己、は自分で措定したものであるか、それとも他者によって措定されたものであるかいずれかでなければならない。さて自己自身に関係するところの関係が他者によって措定されたものである場合、むろんその関係が第三者なのではあるが、しかしその関係すなわち第三者はさらにまたその全関係を措定したところのものに関係するところの関係でもある。」

難解すぎる…ので分かりやすく言い直すと、人間は(=)精神であり(=)自己である。そして、自己は有限性無限性時間的なるもの永遠的なるもの自由必然といった関係に対して、積極的(能動的)に関わっていき、これらの関係を綜合していく存在である。つまり、関係(AとB)に対して関係する(=両者の均衡を取ろうとする)ことで自己となる。この綜合こそが自己なのである。

例えば、有限性と無限性の関係では、現実と理想のバランスを取ろうとすること。時間的なるものと永遠的なるものの関係では、肉体と魂の折り合いをつけること。自由と必然では、必然性の中で可能性を考えること。などとかみ砕いても良いかもしれない。しかし、これだけではまだ自己とは言えないキルケゴールは考える。その足りないものとは「三者」である。

キルケゴール二つの第三者について言及している。否定的統一としての第三者と、積極的な第三者である。第三者とは、関係(AとB)によって形作られる「もの」(C)だ。否定的統一とは、霊(魂)と肉体という関係の綜合が人間であることと言えば分かりやすいかもしれない。…魂と肉体の関係(AとB)が綜合した人間(C)が第三者である。そして『宝石の国』における「にんげん」は魂・肉・骨が自立している。魂と肉体(と骨)が総合された人間は否定的統一であり、自立している魂・肉・骨の総称としての「にんげん」は否定的統一ではない。つまり、キルケゴールがわざわざ否定的統一を持ち出してきたのは、関係(AとB)の綜合はA―Bという単なる関係ではなく、Cという第三者であるべきだということである。…と、それでも否定的統一はただの表象である。それは外的な表れでしかない。魂と肉体との綜合による「心の活動」こそが人間である。しかし、キルケゴールはさらに積極的な第三者を要求する。つまり、魂と肉体の綜合(否定的統一)がさらに関係してもたらされる「精神活動」が人間ということである。

さてここまで述べてしまえば、あとはサクッと処理しよう。自己には自分で措定したもの他者が措定したものの二つがあるらしい。ここでは分かりやすく、関係(AとB)の均衡を保つ(綜合する)ための関係を自分自身が用意するか、他者が用意するかという認識で構わない。そして、キルケゴールは、関係は他者との関係でしか均衡が保たれないと考える。この他者とはのことである。つまり、魂と肉体の綜合としての人間(心)では不十分であり、魂と肉体の関係が他者(神)と関係して形作られる精神こそが自己なのである。

以上が引用部分の解釈である。要はキルケゴールキリスト教(神)を信仰せよと結論付けるわけだが、もちろんそんなに単純な話でもないだろう。神とは、さまざまな関係のバランサーである。つまり、彼らと「文化」が違う私たちはその代替物としての他者を探せば良い。

以上が『宝石の国』を語るうえで「他者性」というキーワードを出した理由であり、人間は「総合人」であるべきだと述べてきた理由である。キルケゴールが考える関係(AとB)は両者への肯定を前提とする。その均衡を取ることが大事なのである。初めから片方を否定している宝石という存在は、そもそも総合人たり得ない。

宝石たちの「死に至らない身体」は時間的なるものを否定し、認知的不協和による思考停止は無限性を否定し、整形された一様さは可能性(自由)を否定するものである。宝石たちの初期装備はそんな感じだ。それに反してフォスは他者的なるものとの関係のなかで、キルケゴールの考える他者の代替物を得ていった。

また、キルケゴールの考える他者、つまり神という存在は「始まりと終わり」の関係の綜合と捉えることが出来るのではないかと思う。始まりとは起源であり、「自分とは何者なのか」を考えることである。終わりとは死であり、「自分はどうあるべきか」を考えることだ。そして、結局は「本当のこと」とは元を辿ればこの二つの問いに集約されるのではないかと思う。…そして、神という存在が考えだされたのは、人間が自己であるための他者(関係)を得るためだったのではないだろうか。

フォスは他者性の獲得によって成長してきた。逆に宝石たちは他者性の欠損によって停滞している。そして、究極の他者性と言えるものが「神」である。神とは始まりと終わり、生と死(生と滅)の関係の綜合である。そして、生と死は同じことである。しかし、生は表象している外的なものである。その生を浮き彫りにするのはやはり「死」であろう。そういう意味において、神という他者は多分にのことだ。つまり、死こそが究極の他者であると言っても差し支えはないだろう。では、本作において死について語られている箇所を三つほど引用したい。

「(宝石たちの死は)仮死に過ぎない。他の生物にはないすばらしい特性です。しかし、この性質のせいで私たちは何事も諦められないのですけど…」

「僕ら存外にぶいからなぁ。夏が暑いとか冬が寒いとか植物ほど敏感じゃないし、危険にも虫のようになれない。やっぱり不死のせいかしら」

「死は何もかも台無しにする代わりに生を価値あるものにする」

死なない(終わりがない)ことで、宝石たちの生は希薄なものとなっている。キルケゴールも言うように、自己は時間的なるものと永遠的なるものの均衡を取らなければならない。彼らの世界ではそもそも時間的なるもの(肉体)と永遠的なるもの(魂)が分離しているとも言えるが、宝石たちにおいて生と死の均衡は崩壊している。宝石たちは不老不死であり、極端に永遠的である。すると自己=精神は生まれず、浅い絶望のループを繰り返すだけになる。

それが現在をより良く生きようという情動を失わせる。どれだけ砕けても元に戻るので、宝石たちは気温や危険についてとても鈍い。それと同じように無限の寿命は、時間についての感性を鈍くさせる。仲間が連れ去られようが、時間は尽きることはないし、身体的にも死ぬことはない。永遠は彼らの生を希釈し、または彼らを諦められなくし、より良く生きること=本当のことが知りたいと欲すこと、そのために生をアップデートしていくことを躊躇させる。

数千年、数万年生きるのなら、生きねばならないなら、金剛先生との優しい世界を壊す勇気は出ないし、連れ去られた仲間の寿命も尽きないのだから奪還作戦に緊急性はない。永遠はそうして生の価値を奪うのである。そして、残された道は「逃避」しかなくなる。

フォスはいくつかの他者性を獲得したことで、死という他者の代替的なるもの(己のなかの神=精神)を手に入れていったのではないか。他者的なるものとの出会いと問答をくり返し、自らの中に死に代わる他者性を積み重ね、本当の生を獲得する途上に居る、それがフォスという存在なのではないかと考える。永遠の命はもはや「生」ではないし、金剛先生との優しい世界は偽物である可能性がある。フォスはそのような欺瞞を終わらせる覚悟が出来ている。私たちにもフォスのような「精神」が必要ではないだろうか。この世界に欺瞞はないか、私たちはちゃんと生きているか。問い返しを始めなければならない。精神という内なる神、内なる他者との対話を始めよう。

最後に、私たち日本人にある種の真剣さがないのは、死ぬことがないと思い込んでいるからだ。そう思えてならない。文芸批評家の浜崎洋介は日本人が社会に溢れている理不尽について何も考えようとしないことに対して、他者意識の欠損が原因ではないかと語っている。そして、他者意識はどこで育つのか。他者とはコントロール出来ない何かであるので、最大の他者は死である。なので死とどう向き合ってきたか、それこそが肝要ではないかと説く。かつての日本には武士道を含めてそういう前提がしっかりと存在していた。

しかし、文明の発達によって死はまた著しく遠い存在になっているし、現代社会は世界戦争なんてもう起きないと高を括っている。また、生の価値を生に求めるようになった。生き延びることだけが価値となっていき、ちょうど新自由主義の暗雲が我が国を覆うころにはサヴァイヴ系というジャンルがサブカルチャーを席巻していった。『バトルロワイヤル』に代表されるサヴァイヴ系は、何やら生存をかけたゲームに巻き込まれており、生き延びることが最優先となる想像力である。新自由主義により競争が激化して格差は拡大し、デフレ不況は終わりが見えない。そんな中で文明の利器と生きやすい時代や戦争のない世界(もちろん認知的不協和)といった甘い水で飼われ、あるいは勤労統計の不正や、景気動向指数の恣意的運用などのあらゆる手段で危機が隠匿されている。これによって、生き延びることが最優先だが、死ぬことはないというムードが社会に蔓延するようになっている。明らかに矛盾しているがそこはご愛敬、ちょっとした認知的な不協和である!その結果、人々はやがてやってくる死に想いを馳せることもないし、寿命以外で死ぬことなど想像もしないし、ましてや国家が死ぬ(滅びる)などあり得ないと思っているのだ。

しかし、現実には人間はもちろん死ぬし、世界戦争は形を変えて息をひそめている。いや戦争なんて起こらなくても国は滅びるのだ。現に我が国はまるで戦争があったかのように世代人口が減少している。見えない戦争は見えない敵と既にもう始まっているのである。あるいは戦争はいまだ終わっていないのである。

「昔は滅ぼすか滅ぼされるかの大変な時代だったね」と現代人は他人事のように話すけれど、本当にそうなのか。国が死なないというのは多分だけど幻想だ。歴史は国が滅ぶことの繰り返しだったし、終わりがあるから(想像できるから)こそ出来るだけ長く良き時代が続くように国づくりに励むのだそれが近代(現代)という時代において、国が亡ぶ時代はもう終わりだと言わんばかりの現代人がそこに居る。そういう空気のなかで、真剣に終わりに想いを馳せる人はどれだけいるだろうか。人は死ぬし、国家は滅ぶ。たとえ寿命が来なくとも、たとえ戦争が起きなくても。それなのに…。

 

あぁ私たちは宝石たちとまったく同じだ。死に至れない病に侵されている。これは憂うべきことである。

 

 

過剰摂取には注意を―補論―

過剰摂取には注意を払わなければならない。フォスは両足に続き、両腕、さらに…と幾度も欠損と紛失をくり返し、その度に異物を取り込んできた。足はアゲートであり、腕は白金だ。他にも…。規則的配列の身体に異物(複雑性)を取り込むことによって、フォスは「本当のことが知りたい」と思うに至ったことは既に述べた。これは素晴らしいことである。彼の本当のことを知るための勇気と行動に心から賛辞を送りたい。しかし、原作最新刊あたりになると雲行きが怪しくなってくる。詳細は次の機会とさせていただくが、フォスの行動が急進的になり過ぎている印象を受ける。それはフォスの身体に占める異物の割合がとうとうフォスフォフィライトの割合を超えてしまったことが影響しているように思う。フォスフォフィライト部分に記憶が蓄積されており、それを失うとその分記憶が無くなるという事もあるし、異物を取り入れていくごとに向上する力への驕りもあるだろう。そんなあまりにも急進的なフォスの存在が宝石たちを変えつつある。ただ、暗黙了解を守り、優しい世界を維持することしか考えていなかった宝石たちが、フォスとともに月を目指すか、依然この世界の維持に努めるかという二派に分かれるのである。しかし、金剛先生のもとに残った宝石たちもこれまでの様子とは少し違う。「本当のこと」を直視し思考した結果、決断したのである。それはもはや守旧派から保守派への転身だ。急進的なフォスに対して、保守的な宝石たちが現れてきた。彼らはフォスという他者との関係のなかで自ら考えて態度を決しており「真剣」である。この先の展開を見守りたい。

 フォスが手に入れた他者はやはり偽りの他者でしかなかった。フォスの中で均衡が崩れつつあるのかもしれない。死を取り戻す、ひいては生を取り戻すことこそがフォスにとって、私たちにとって、活路となるのではないだろうか。「死に至る病」結構だ。死ねるだけそっちの方がまだ良いじゃないか。